東日本大震災に伴う原子力発電所の事故によって、震災直後、ライフラインについての情報の少ない中、否応にも〈節電〉を迫られた。
現在、電力に関するライフライン情報が充実するに従って、原発が停止しても節電をする必要などないという考え方が広まっているが、震災直後は、少なくとも自分の周りでは節電を気にかけない者などいなかったし、自分自身も節電を気にかけて生活していた。
そして節電をしながら聴こえてきたのは、自分の信じていた音楽の分野が、
脆くもがらがらと崩れさっていくがらがらがらがら、という音だった。
震災直後、以前から予定されていた DJ パーティーを開催するかどうかという仲間内での意見交換がされた。私は中止するべき、という立場だった。しかし開催された。開催されるからには、中途半端な DJ パーティーにはしたくないと思った。しかし、実際には音量はしぼられ、ただでさえ間接照明で真っ暗な会場店内がもーっと暗くなるという状況でパーティーは開催された。
電気の使用が制限されなければならない状況下では、自分の好きなポピュラーミュージックがいかに弱いかが露呈された瞬間だった。
音楽が好きだ。中学から高校にかけてロックを信望していた。高校卒業頃からテクノを聴き始めて音楽に対する聴き方がもっとずーっと広がった。ロックとテクノは自分の音楽リスナー経歴を構成する最も重要な要素である。
しかし、ロックもテクノも電気の力によって音を増幅させて、つまりはいわばその〈音量〉で人を魅了する = 麻痺させる音楽である以上、節電が謳われる震災直後の日本においては、非常に脆いものに思えた。
否、事実、脆い音楽だったのだ。
電気がなければ、ロックやテクノは音楽としての存在することなど不可能に等しい。
ロックやテクノから力をもらっていた自分は、その脆さに困惑したものだ。
(ここで一つの問いを立てられるだろう。すなわち、電力のない状況でロックやテクノは成立可能か、という問いである。これに対して私は現時点で明確な答えを持ち合わせていない。なお、DJ という私の拠り所にしている表現手段が、電力がなければ全く成立しないことは、火を見るより明らかである)
この私の考えに沿うように、いや、誰しもが考えていたことであろうが、ポピュラーミュージック催事について震災直後、様々な憶測が飛んだ。いわく、FUJI ROCK の出資企業であるハイネケンが東北に工場があり壊滅的な被害にあっており、今年は FUJI ROCK は開催できないのではないか。ROCK IN JAPAN フェスの会場であるひたちなかも、ロックフェスなんぞを開催できる状況ではない。そもそも外タレがわざわざ被爆されに余震があるかもしれないのに来日するのか。等々。そうしたなかで自分もまた、例えば WIRE は中止だ、中止にするべきだ、と考えていた。
計画停電の実施された春が過ぎ、電力使用制限の発令された夏がきた。
この間に、FUJI ROCK も WIRE も、これらを初めとする大小さまざまなポップミュージックフェスティバルが開催されるとアナウンスされた。
本当に嬉しかった。本当に感動した。
震災に、これに伴う原発事故に、さらにこれに伴う電気問題に、それでも負けないように立ち向かおうとするロックやテクノが好きな連中は強い、と感動した。そんな連中を応援しようと思った。だから FUJI ROCK と WIRE に行った。両方とも、〈例年通り〉素敵なパーティーだった。その場でポピュラーミュージックを甘受できる喜びをかみしめた。
ロックもテクノも、自分にとっては非日常の音楽である。これらを聴くとき、〈クソみたいな日常〉は忘れ去られる。〈クソみたいな日常〉を忘れ去らせてくれるロックやテクノこそ、真のロックであり真のテクノである。
しかし、非日常は、ロックやテクノにあっては、〈クソみたいな日常〉が成立してこその非日常であった。2011年夏、各地で野外音楽イベントが開かれるというアナウンスを聞いて感じたのは、非日常が成立するために必要不可欠な〈クソみたいな日常〉が戻ってきたという、倒錯した安堵感であった。
とにかく、ロックもテクノも、未曾有という言われる、想定外と言われる、モーメントマグニチュード 9の、東日本大震災に勝ったのだ(もちろん被災地では、矛盾する表現だが〈安心してロックを聴ける環境ではない〉状況が続いている地域があることを忘れてはならない)。
しかしここでもう一度、立ち止まって問いかけねばなるまい。前述の問いを、問わねばなるまい。
すなわち、電力のない状況でロックやテクノは成立可能か、という問いである。
これに対して私は、現時点で明確な答えを持ち合わせていない。
なお、DJ という私の拠り所にしている表現手段が、電力がなければ全く成立しないことは、火を見るより明らかである。
東日本大震災について、2012年に思うこと 2