東日本大震災について、3年目に思うこと

世間の取り上げ具合もかなり落ち着いてきて、わたしじしんの関心もかなり落ち着いてきています。2011年3月11日から経験し、思い、考え、そして思い考えざるを得なかったことたち—————、それは、音楽に関係してもいるし、音楽に関係ないことがらもふくまれる、そういったことたちは、「思い出さないといけないもの」になりつつあります。

東日本大震災と音楽、3.11 と音楽。言い方はいくようにもできますが、その点については、昨年書いた文章から変わっていません。

要するに、芸術や娯楽といった音楽それ以前の、生きる力のための音楽というのは、確かに存在するだろう。という考えは、変わっていません。ただ、音楽でなければならない、ということはない。音楽は、生活を構成するあらゆる要素のうちの1つで、その要素を強く選択した者にとっては、およそ単独者の単位で、「生きる」ことへの並ならぬ影響を及ぼす。いま、1年前のエントリーを書き改め、まとめるとすれば、こういうふうになると思います。

さて、昨年に引き続き、「3.11と音楽」というテーマで、トラックを作りました。

今年は(というか昨年から引き続き、おそらくこれからも毎年になると思いますが、)「思い出す」が副次的なテーマです。わたしたちは思い出さなければならなくなってきている。なりつつある。もちろん、いまだに避難生活を強いられている被災者にとっては、思い出すも何もない、いま・目の前の現実でしょう。ただ、そうではない、被災地から遠く離れのうのうと日々を暮らしているわたしのような人間にとっては、もはや東日本大震災は「思い出す」対象となってしまいました。

「思い出す」こと、これはわたしにとっての戒めです(昨年に引き続き)。20世紀以降に発達した音楽は、何かを「思い出さす」という機能を、「サンプリング」という手段で強固なものにしたと、考えています。ということで、いくつかの「緊急地震速報」をサンプリングし、「3.11」という数字をパラメータ(エコーやリバーブの設定値)やリズム(3:11を刻む)に当て、東日本大震災を「癒す」メロディーとしてすっかり定着したと(わたしが勝手に思い込んでいる)童謡「ふるさと」をカバーしました。冒頭は、「ふるさと」を逆再生しています。これはもちろん、記憶を呼び起こすことを意図しています。

忘れてはいけないことを強要するわけではありません。どーでもいーと思っている人の権利は、それはそれで保証されるべきでしょう。ただ、一度「忘れてはいけない」と思ってしまった人は、「忘れてはいけない」の無慈悲な債務を負い続ける義務があるでしょう(たぶん)。「忘れてはいけない」ことが主な目的になってしまうのは滑稽ですが、「忘れた」よりはいくぶんマシかとも思います。

拙いトラックですが、そういうことを考えながら作りましたので、ぜひ聴いてください。

また、わたしの作ったようなしょっぱいトラックではなく、もっと直に・ダイレクトに訴えかける、東日本大震災について、「癒し」や「ガンバレ」ではない、「忘れるな」「直視しろ」をテーマにした楽曲があります。聴いた範囲ですが、いくつか紹介して、このエントリーの終わりに代えます。


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