「そうですね、9. 11 から始まって、何ヶ月か続いた自分の状態、また世界の状態は、いまだにインパクトが大きくて、忘れられません。やはり恐怖ですね」
(坂本龍一 (2011)「明日の見えない時代に、耳を澄ます」(『アルテス vol. 01』) p. 18)
「短期間にものすごい量の情報を得て、勉強して、自分の中で世界像を立て直そうとしたんですね。自分にとっての世界像をもたないと、人間というのは行動できないんです」
(同 p. 18)
音楽には直接関係のないが、人間の在り方をはっと気付かされるような発言だ。特に「自分にとっての世界像をもたないと、人間というのは行動できない」という部分。
以前に比べ、坂本龍一の発言やら音楽やらを熱心に追いかけなくなったのだが、というのも、以前ははっきりいってネームバリューだけでありがたがって聴いていたのだけれど、最近になって坂本龍一の音楽は好みではない、というのに気付いたから。けれど、繰り返しになるが、たまーにこういう雑誌などで、「あー、うんうん」と頷いてしまう発言がある。そういう点では、やはりスゴい人なのだなあ、とは思う。
音楽というものは生物の基本的な欲求のコントロールを司る
「音楽というものは、以前は脳の中の大脳皮質的な部分で作られたり聴かれたりするといわれていましたが、最近の脳科学の研究によると、ずいぶん脳の基底部———、いわゆる爬虫類の脳といわれる、進化の過程ではかなり古い部分に当たる、食欲とか性欲といった生物の基本的な欲求のコントロールを司るところが活発に働くらしいんですね」
(同 p. 21)
こういった〈科学的に音楽を理解する〉系の話は、それはそれでしっかりしているだろうし、読んでいて興味深いのだけれど。ただ、坂本龍一自身も「最近の研究」と言っている通り、科学の見解というのはくつがえる可能性がある。だから、〈音楽の科学〉を〈信用〉し過ぎてはならない。
100 年後の人間も聴いてる音楽
「三輪さんではないですが、いまぼくらが手にしている音楽のうち、一〇〇年後の人間も聴いている音楽はどういうものかなあと、ぼくもよく考えます。自分の音楽は難しいかなとか(笑)、それじゃいかん、などと反省しながらもよく考えるんですが・・・・・・ビートルズは残るだろう、とかね」(同 p. 21)
「ビートルズは残るでしょう、いくつかの曲はね。愚にもつかない遊びですが、はたして武満徹はどうだろうか、ピエール・ブーレーズは難しいんじゃないか(笑)・・・・・・そういうことも考えますね」(同 p. 22)
「一〇〇年後も残る音楽」などというのは、音楽の本質を見誤っているのではないか(とか言ったらめちゃくちゃ怒られそうですが(笑))。音楽はそもそも「残らない」ものだ。もし「残る」であれば、私は、叶うことなら、3ヶ月で消費され、500年後にマニアックな人々に発掘、再演されるような、そんな音楽を作りたい。
音自身がもっている真摯さ
「ビートルズは必ずしも真摯に音楽を作ったわけじゃないというのは、まさにそのとおりで、モーツァルトだってそうですね。じつはバッハだって、あんなにたくさん書きましたけれども、「また日曜日が来ちゃうから」といって仕事で嫌々書いている部分も多々あったでしょうね。「こういう音を書くと受けがいいかな」とかね、そんなことも考えていたでしょう。ただ、ロマン派的な「苦悩する芸術家」の真摯さと、音自身がもっている真摯さとはまたちょっと違うものだと思うんです」
(同 p. 23)
(こうやって前後の文脈をブッた切って引用するのは、非常に引用元に対して失礼だとは分かっているのだけれども)
「音自身がもっている真摯さ」とは何か。真摯さとは、音を感じる人間の精神の方に宿るのではないか。
〈kizuna world〉について
(同 p. 24)
アートの役目, 儀式
「あのような大きな災害があると、それ〔引用者注: 「人工環境」のこと〕がいかに脆いものかということを思い出させてくれる」
(同 p. 25)
「そういう人工環境のなかに裂け目を作って、いつもそのことを忘れないようにするのが、もしかしたらアートや音楽の役目であるのかもしれません。古代で言えば、天と地を結ぶもの。宗教儀式もそうでしょうが、それと同じですよね、アートや音楽の役割というのは」(同 同ページ)
このあたりの考え方というのは、クリストファー・スモールのミュージッキング理論に近いかもしれない。ただおそらく、スモールの想定している儀式と坂本龍一の想定している儀式は、異なるであろう。坂本龍一の想定している儀式においては、音楽は、それ自体として成立している何かとして捉えられているのかもしれない。
3. 11によって壊された近代の世界像
「近代の世界像、あるいは人工環境という夢が少しほころびちゃったので、「頑張ろう」と呼びかける CM を作ったり、音楽を作ったり歌ったりして、その夢をもう一度見ようとするわけです。
でも、それではダメですよね。むしろ、悪いのは夢だったんだよ、現実はこうだよ、と覚醒しなければと思うんですが、難しいですよね」
(同 p. 26)
〈3. 11によって壊された近代の世界像〉というが具体的に何を指すのかははっきりしないが(「頑張ろう」が謳われる世界像だろうか)、われわれの見た「夢」も現実の一部として受け取った上で、「近代の世界像」を乗り越えなければ、また別の夢を追い求めてしまうのではないか。
現に、3.11 以降の反原発・脱原発を主張する連中は、また別の夢を追い求めているように、私には見えるのだが(しかしこれもまた現実の一部である)。
とか言いつつ、ちゃっかり小林武史のチャリティー企画に乗っかったりして、ツンデレ(使い方が違う?)なのか。坂本龍一は。
坂本隆一の音楽は「エコ」ではない
「ぼくはいつもエコ、エコとか言ってるわけですけども(笑)、もちろんそれなりに勉強したりはしているんですが、自分の音楽はあまりエコにはならないなあと(笑)」
(同 p. 27 – 28)
「本質的にエコな音楽というものがあるんじゃないかと思うんですけど、なかなか思いつかなくて。まあ、時がくれば何か出てくるだろうし、強引に音楽とエコを結びつけようとは思ってないんです」
(同 p.28)
「エコな音楽」はあるとも言えるしないとも言えよう。つまり、或る音現象そのものがエコを表すというのはありえない。ただ一方で、或る音現象をエコであると聴取する人間がいれば、それはエコな音楽であると言える。また、或る音楽行為を成立させるための人間の営みが、他の音楽行為を成立させるための人間の営みより「エコ」であれば、それは「エコな音楽」と言えよう。
ただ、よくわからないのだが、〈何を以ってエコだ、と判断できるのだろうか〉。これがはっきりしない限り、エコな音楽というのは成立しないに違いない。
電気なんて原子力以外にも作る方法はいくらでもある
「電気や核なんてただのインフラであって、エネルギーのソースなんてどうでもいいといえばどうでもいいんですよ」
(同 p. 28)
「電気イコール原子力だと、どうもそういう頭になっちゃっている人が、「反」のほうにも「推進」のほうにもたくさんいて、ぼくがちょっと「原子力反対」みたいなことをいうと、「じゃあ電気使うな」なんてことを言われるんだけど、電気なんて原子力以外にも作る方法はいくらでもあるんですから。そこがごっちゃになっている人も見受けられますが、そこは分けて考えた方が良いと思っています」
(同 同ページ)
原子力問題において、非常に示唆のある発言だと思う。ただここまで言い切ってしまうと、「反」原発である必要性はないのではないか、とも思う。つまり、(あまりこの辺の考えは自分の中で整理できていないのだが、)どのように電気を作ろうと、危険は伴う。その危険の伴うものの中で最大ものが原子力であって、ただ———、例えば火力発電であっても、危険であるに違いない。この危険は程度問題である。原子力がダメと言うのであれば、火力やその他の発電が大丈夫だとは言ってはならない気がする(そもそも、地球温暖化問題はどこにいったのだろうか)。また、身近者が発電所が原因で志望したとして、遺族の悲しみ・憎しみは原子力であろうと火力であろうと変わらないはずだ。
頑張らない音楽がいい
「頑張らない音楽がいいですよね、こういうときは。モートン・フェルドマンとか」
(同 p. 29)
いやいや、相当頑張っているように聴こえるけど(笑)。まあ、音楽で頑張りを表すのと、頑張って音楽を作るというのは違うのでしょうけど。
「頑張ろう」が嫌い
「岡田さんじゃないですけど、自分でも、なんでこんなに「頑張ろう」が嫌いなんだろうとも思いますけどね(笑)。でも、それはやっぱり欺瞞だからでしょう」
(同 p. 30)
たとえ欺瞞であっても、事実頑張っている人間に対して、坂本龍一は同じことが言えるのだろうか。「頑張る」で以って指している事態が、坂本龍一と私とでは異なるのだろうか。
映画監督が、もう物語を作れなくなっちゃった
「東西対立がなくなってから、面白いものが出てこなくなりましたね。ヴィム・ヴェンダーズのようなひじょうに才能のある映画監督が、もう物語を作れなくなっちゃったんです」(同 p. 31)
「対立のある」ということ前提の面白い物語がなくなってしまった、というふうに理解して良いだろう。
音を聴く人間は、未来を聴く
「予言というのは「聴く」ものですよね。「天の声を聴く」っていうでしょ? いつでも音で表現される」(同 p. 32)
「予感があったときも「耳をそばだてる」っていうでしょ? わりと聴くものなんですよね。気配を感じさせるのは、音なんですよ。だから、音を聴く人間は、未来を聴く、これから起ころうとしていることを聴く能力が少しだけあるのかもしれないですね」(同 同ページ)
この能力の高いものが「音楽家」である、などという考え方には賛同できない。しかし、なかなかロマンティックで、素敵な考え方だなあ、と、単純に思った。