神話的な時間の出現としての 3.11

「すでに 3.11 よりも前に三輪眞弘さんは、私たちが「音楽」と名づけているものの大半が電気なくしては存立しえず、ほとんどその実体は電気であると言っても過言ではないことを指摘して、次のように書いていた。「コンピュータ音楽であれメディアアートであれ、『装置を使った(芸術)表現』についてなにかを語る際に、ぼくらは、ある装置を電源コンセントにつなぐことから始めているという事実に注目しようとはしない。『コンセントの向こう』には、つまり電力が安定的に供給される背景には、地球規模のエネルギー問題〔中略〕が果てしなく連なっていることを意識することはまずないはずだ」(『三輪眞弘音楽藝術 全思考一九九八ー二〇一〇』、アルテスパブリッシング、五頁)。これを読んでいまさらだが思う。これまでの人生で私は、音楽鑑賞のためにどれだけの量の電気ゴミ(エレクトリック・ウェイストとでもよぶべきもの)を排出してきたのだろう、と」(岡田暁生(2011)「芸術はなおも「頑張る物語」を語り得るか」『アルテス Vol.01』p. 36)

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電気が制限された後に残る音楽

仮に将来、電気が(戦中のコメのように)配給制になったとしたら、私たちの音楽ライフはどうなっていくのだろう? 家庭ごとに一日に使える電気の総量が割り当てられる。私自身はこうした暮らしが嫌ではない。オーディオや DVD に使える電気も、「一日に一時間だけ」という具合に、自ずと限定されよう。さて、本当にそうなったとすれば、限られた時間の中で、いったいなにを聴こうか? こう考えるのはけっこう楽しい。よくある「孤島にもっていくとしたらどの本を選ぶ?」といったアンケートのようなものである」

「音楽とのかかわりは、消費から対話へと、否応なしに移行せざるをえないだろう。いや、そうなってほしいと強く願う」
(同書 同ページ)

確かに、〈電気が制限された後に残る音楽〉という観点は非常に興味深いし、私もあれこれと思い巡らすことがある。しかしこれでは、音楽を「聴く対象」としてしか捉えていないのではないか。「電気が配給制」になれば、例えば、体力の続く限りエレクトリックギターを延々と演奏し続けるといった音楽行為が不可能になってしまうのだが、また例えば、レイヴと言った類いの音楽催事も不可能になってしまうのだが、これを〈善〉しとする音楽への態度が〈正しい〉と言えるか。

何が芸術を本物にするのか

「芸術を「本物」にするのは、大いなるものへの畏れなのだという気持ちを、どうしても捨てられない。なんとしてもこれを他者に伝えたいという、やむにやまれぬ衝動」(同書 p. 36)

岡田暁生による、「芸術テーゼ」とでも言えることばである。

音楽の「感動」のルーツ

ひょっとすると音楽のもたらす『感動』の遠いルーツは、『そこに人がいる = 私は地上でひとりではない』という、救いの体温の感覚の中にあるのかもしれない(同書 p. 36 – 37)

このことばは、岡田暁生『音楽の聴き方』からの孫引きである。彼の言いたいことは理解できるが、果たしてそれは岡田暁生以外にとっても事実と言いうるのだろうか。

神話的な時間の出現

今回のできごとの心理的衝撃はなにより、それが地震や津波といった、物理学 = モノ自体を超えた次元で展開されている点にある。いうまでもない、放射能の問題である。近代が忘れ果てていた神話的な時間が、放射能によって突如として現代に出現してしまったのだ(同書 p. 39)

ここでの「神話的な時間」とは、放射能問題において語られる10万年であるとか、そういった時間を指す。東日本大震災以前、日常において私たちは、生活において10万年という単位で物事を考えない。震災後、10万年という言わば途方もない時間が、日常において考えられなければならなくなったのである。これが、岡田暁生のいう「神話的な時間が」「現代に出現してしまった」ということである。

現代日本におけるポストモダン論

しかるに、今日の私たちが、頼るべき物語モデルをみいだせず右往左往している最大の理由のひとつはまさに、ポスト・モダンが反抗期のガキよろしくモダンを弄ぶばかりで、この仮想敵から自立することをせず、「頑張る近代オヤジの物語」に代わる自前のストーリーを作るにいたらなかった点にあるのではないか。ヨーロッパにおけるポスト・モダン思想が生まれた背景には、近代啓蒙思想に対する深いペシミズムと決別があったように思うが(そのルーツであるハイデガーやアドルノやベンヤミンからしてすでにそうだ)、日本の場合、その「輸入」がバブル期と重なったことも手伝って、なにやらモダン的なものを調子よく嘲笑するストーリーばかりが「ポスト・モダン」の名のものとで粗製乱造されてきたように思うのだ(同書 p. 40)

岡田暁生の語る現代日本におけるポストモダン論。この点に関しては、継続的に議論が必要であろう。というのも、ポストモダンはそもそも「自前のストーリーをつくるにいたらな」いことでポストモダンなのだから。 


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