3.11 以降の芸術の在り方

「エンタテインメントのあいだに違いがあるとすれば、エンタテインメントはやっぱりいま生きている、目の前にいる人に対して基本的にはやるものなんですよね。芸術というものにはやっぱり、死者、そして未来の、まだ見えない人のことが計算に入っているというか、視野に入っているか、そこの違いなんだと最近思うんです」(岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋(2011)「3. 11 芸術の運命」『アルテス Vol.01』p. 64)

岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋による討論内での、三輪眞弘の発言。三輪眞弘によれば、芸術は目の前にいない誰か(何か?)に向けられてこそ、芸術として認められる。

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鎮魂の共有としてのレクイエム

「このような状況で作曲家として何ができるか、ということを考えたときに、レクイエムを書いたらいいんじゃないか、という答えもあり得ると思うんです。しかしそう考えたときに、いったい自分には書けるか、ということを思うわけですよね。まさに西洋音楽の歴史において無数の鎮魂歌が西洋の作曲家によって作曲家されてきた(日本人もいますけれど)。レクイエムはだいたい重々しい、あるいは清浄な音楽ですが、そんなものを書けるかといったら書けないんですよね。なぜかというと、もう死というイメージがすごく記号化されているので、やっぱり自分の死とかそういうものとの関係みたいなものが見えてこないからだと思うんですよね。つまり、パターン化されたもののムード・ミュージックをつくるようなことにしかならないジレンマみたいなことを、個人的には非常に感じているんです」(岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋(2011)「3. 11 芸術の運命」『アルテス Vol.01』p. 65)

岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋による討論内での、三輪眞弘の発言、震災被害者に対するレクイエムについて。あたかも音楽それ自体が存在し、究極的に理想的なレクイエムを作曲すれば、聴衆全員がそれを聴くことで皆が「鎮魂」を共有できるような音楽が存在するかのようだ。

宇宙の星屑から生まれて俺はなぜいまこの世にいるんだろうと素朴に思う、それに答えるような営み

「現代芸術における想像力というものを、いまのテクノロジーは超えてしまったんじゃないかというと、たぶんそうなんだと思います。そのような意味では原子力発電所だって、物質それ事態からエネルギーを取り出すという、常人の想像力や実感をはるかに超えた不思議な存在で、それは神秘的でさえあると思います。そういう意味において、現代芸術における発想力を競い合うような表現というものは、僕はもうやっぱり成り立たないだろうと思います」(岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋(2011)「3. 11 芸術の運命」『アルテス Vol.01』p. 69)

「ただ、芸術とは何かという根源に還ってみれば、つまり人間がやってきた営みとしての芸術というところで考えてみれば、違うかたちでは必ずあり続けるだろうと思うんですね」(同書 同ページ)

「それは、なんなんでしょう、要は宇宙の星屑から生まれて俺はなぜいまこの世にいるんだろうと素朴に思う、それに答えるような営みというのが、基本的には古来からの芸術のあり方だったと思うんですね」(同書 同ページ)

岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋による討論内での、三輪眞弘の発言、コンセプチュアル・アートと東日本大震災以降の芸術の在り方について。ここでの三輪眞弘によると、〈自分の存在に答えようとする営み〉こそが芸術のあり方である。そして、以前引用した三輪眞弘の芸術についての発言を総合すれば、次のようになるのだろうか。すなわち、〈芸術とは、目の前にいない誰か(何か?)に向けて、自分の存在に答えようとする営み〉である、と。

究極主義を批判する

「いわゆる西洋音楽は、いわゆる高尚な音楽のようにイメージされ、しかもアカデミーで教えられるものとして社会の中で認知されている。そこには、芸術のための芸術とか、それは音楽だけではなくて、つまり芸術家というのは美を徹底的に探求するという態度こそがプロとして望ましい姿勢だといわれる。僕は最近、それを「究極主義」とよぼうと思っているんですけど、つまり、科学者は真理を追究すれば他のことはもうどうでもいい、関係ないという姿勢。あるいは、ラーメン屋さんは究極の一杯を作るのが立派なことで、他のことはなんにも考えなくていいという態度。このような姿勢というのは、たとえばお金さえ儲かればほかのことはどうなってもいいという態度とまったく同じ形をしているわけですよね。そして、そういう究極主義みたいなものがたぶんこの世界を、この世界をすごく悪く、無責任なものにしているような気がするわけです」(岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋(2011)「3. 11 芸術の運命」『アルテス Vol.01』p. 71)

岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋による討論内での、三輪眞弘の発言、「究極主義」批判。

芸術とは奉納である

「芸術というのは、僕の独特な言い方なんですけど、基本的には「奉納」なんですよね。神に捧げるものなんです。音楽でいえば、「聴衆」というのは基本的にはそれに立ち会う人であるわけです。クラシックのベートーヴェンのコンサートで、ピアノを弾いている人は基本的に僕ら聴衆に向けているんじゃなくて、それはプレイヤーが神に奉納しているのです。その場に居合わせるというのが芸術———僕が考える芸術としての音楽の形態だと思うんです」(岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋(2011)「3. 11 芸術の運命」『アルテス Vol.01』p. 73)

岡田暁生・三輪眞弘・吉岡洋による討論内での、三輪眞弘の発言。つまり、たとえベートーヴェンのコンサートであっても、演奏者が神に奉納しているという自覚がなければ、芸術ではない、ということになってしまうのだろうか。ということは、芸術として音楽が成立するためには、〈演奏される場〉が絶対条件になるということだろうか。


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