田村和紀夫『音楽とは何か ミューズの扉を開く七つの鍵』(2012年、講談社)「第4章 音楽はリズムである」のノートです。なお、当エントリー中の引用部分は、特に断りのない限り同書からになります。以下も参考にしてください。
もう少し、「拍子」についての田村の説明箇所を読んでみましょう。
「拍子は単なるアクセント周期ではありません。」(p. 97)
単なるアクセント周期ではなく、田村によると、リズムは「運動」という観点から捉えられるべきだそうです。
「運動だとしたら、そこにエネルギーを想定すべきです。四分の三拍子の一拍目は強拍で、運動の起点となる安定感のある拍です。二拍目は軽く拍を刻むステップ。そして三拍目は次の小節の頭への重心の移動を含む拍です。三つの拍はそれぞれ性格が異なります。〔中略〕そこには何と美しいエネルギーの循環・流れがあることでしょう。ただの強・弱の交替ではないのです」(同ページ、〔〕内は引用者)
このように、拍は単に強弱として捉えるべきではなく、エネルギーの循環・流れのある運動として捉えられるべきだそうです。田村は付け加えます。
「楽譜にはそうした流れはもちろん書かれていません。見えるのは、拍子記号と小節線だけです。しかし、五線紙と小節線の背後で、循環するエネルギーのうねりを感じるべきです」(pp. 97 – 98)
次に譜例があるのですが、サティの《ジムノペディ》(あのー、「事務のペディ」と変換されたのですが、誰なんでしょうか(笑))です。参考動画を貼っておきますので、「三分の四拍子」の「エネルギー」を味わってください(笑)
金澤正剛『新版 古楽のすすめ』でも似たような話題がありましたが、けっきょく、楽譜通りに演奏して、その上に、音楽が奏でられている時間に生じるエネルギーのようなものを表現できなければ、演奏としての魅力は生まれない。このことを田村は「リズム」を題材に言いたいのかもしれません。
いずれにせよ、「リズム」が「音楽の生命の源である」ためには、「拍子」が必要になる、と田村は言いたい。その部分を引用して、当エントリーを終わらせたいと思います。
「リズムが音の長さであるとしても、それだけでは抽象的であり、リズムを具体的な、生きたものとするためには、拍節構造が不可欠〔中略〕。ここでいう拍節構造とは、西洋音楽のように小節線として明記された場合であれ、民俗音楽のように潜在的に眠っている場合であれ、基本的に変わりはありません」(p. 99、〔〕内は引用者)
えーとですね、田村サン、ちょっと「生きたもの」とか「生命」とか、そういった比喩的な表現をですね、どういった意味で御使用になられているのか(笑) いまいち釈然としません(笑) 確かに比喩というのは、理解の最も根源的な方法だとは思いますけれども、ちょっとですね・・・、「音楽に生命の源である「何か」」であるところの「リズムが生命を獲得するには、拍子というシステムが必要になる」(p. 99)、えー、この場合の「生命」は同じ意味なのでしょうか、同じ意味なのでしょうね・・・、だとしたら・・・、はい、揚げ足取りみたいになってきたのでやめます・・・。