バッハ《ロ短調ミサ曲》BWV232における「踊り」性

田村和紀夫『音楽とは何か ミューズの扉を開く七つの鍵』(2012年、講談社)「第4章 音楽はリズムである」のノートです。なお、当エントリー中の引用部分は、特に断りのない限り同書からになります。以下も参考にしてください。

さて、前回のエントリー「踊りの根源性」では、田村和紀夫のツンデレっぷりが開示されたわけですが(笑)、今回のエントリーは本書 第4章の結びの節「音楽の根源的な姿」をみてみたいと思います。

いちおう、ここまでの第4章の内容をまとめると、

  • リズムは生命である(投稿者の解釈: リズムは音楽に「躍動感」を与える)
  • 西洋音楽における「リズム」の強調 = 「舞曲」化の強調は、音楽の芸術化を衰退させ、大衆化を増進させる
  • 音楽の大衆化 = 舞曲化とは、「わかりやすさ」にあり、つまり「リズム」性の強調された音楽は、「わかりやすい」
  • リズムの強調された音楽 = 舞曲は「わかりやすい」ため、音楽の根源性を示しているのではないか
  • リズムは音楽の根源である

と、いうことみたいです。何かこうしてまとめてみると、結構穴があるような気がしてならないのですが、かつ、ワタシとしては、音楽の芸術性とか大衆性に対してかなりツッコミを入れたのですが(笑 「舞曲への接近 — 大衆化」「ポピュラー音楽における踊りの盛衰」参照)、ひとまずこの話題は置いておいて(というのも、コレを語りだすと収集就かないので(笑))、田村和紀夫のテキストを読んでみたいと思います。

「バッハにとってリズムは根源であり、また究極であることを示す例があります。ロ短調ミサ曲BWV232(一七四九)です。」(p. 119)

「サンクトゥス〔※〕後半の「主の栄光は天と地に満ち」と次章の「オザナ」はともに八分の三拍子で書かれています」(同、〔〕内は引用者 ※サンクトゥス

うーん、バッハ出てきてますね(笑) いや、バッハは素晴らしいですよ! バッハは。でも何かねえ、ポピュラー音楽批評における「困ったときにビートルズ」みたいで(笑)、バッハって出てきてしまうと(笑) 「とりあえず持論に箔を付けるためにバッハ言うとこかなあ~」みたいな(笑) いや、全ッ然そんな意図は著者にはないんでしょうけど、失礼しました。もう少し引用します。田村和紀夫は、この「三拍子」に、《ロ短調ミサ曲》における舞曲性を見出そうとします。

「三拍子は三位一体を表すバッハ好みの象徴を音楽に刻みつけたのだ、と識者はいうでしょう。しかし、たとえそうであっても、霊性の奥義ともいうべき「三」が、ここではきわめて身体的なリズムに満ちた音楽に行き着いています。また舞曲が境界から排除されていた歴史を、バッハが知らないはずもないのです。バッハが目指したのは、象徴という「形而上的」な世界でも、教会の要請という「形而下的」な世界でもなく、音楽の究極ではなかったでしょうか。カトリック – プロテスタントという枠を超えた彼の創作態度が示しているように、宗教 – 世俗という対立さえ超越した地平で「音楽する」ことではなかったでしょうか。その時、音楽は踊りとなるのです」(p. 120)

これはどうなのでしょうか。一般的な《ロ短調ミサ曲》の音楽学的解釈をワタシは知らないので、何とも言えないんですけれども、もしかしてコレ、かなり田村和紀夫独自の解釈、ということでいいのでしょうか。

とにかく、バッハの宗教的作品は、宗教や世俗を超越した次元での「音楽する」ことが目指されており、これがバッハにとっては「踊り」であった。まとめるとこういう感じです(そしてバッハにおいても「踊り」=「リズムの強調」が重要だったのだから、いくら「踊り」が音楽の大衆化を増進させるものであっても、音楽全体にとっては非常に重要なんです! だってあのバッハがですよ! という感じですね・・・)。


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