音楽は歌から?


田村和紀夫『音楽とは何か ミューズの扉を開く七つの鍵』(2012年、講談社)「第5章 音楽は旋律である」のノートです。なお、当エントリー中の引用部分は、特に断りのない限り同書からになります。なお、同書全体に関しては、参考にしてください。

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音楽とは旋律?

さて、同書は、「音楽とは何か」という問いに対して、田村和紀夫が7つのテーマを設定して持論を展開している、という内容になっています。そして第5章では、音楽について、「旋律」をテーマに「とは何か」が考察されています。

「「音楽は旋律(メロディ)である」———これは多くの人が納得できるのではないでしょうか。「こんなの音楽じゃない」などという非難めいた声があがる時、「だってメロディがないじゃないか」といわれることが少なくないからです。音楽のほかの要素ではそんな風にはいわれることはないでしょう」(p. 124)

と、いうことで、田村和紀夫は「音楽は旋律である」と題された章を、音楽に関する非常に通俗的な考え方から始めるのですけれども。

それで、なぜワタシがここで「通俗的」と付け加えたのかというと、「音楽は旋律である」といった場合の音楽は、やはり多くの場合、西洋の音楽のことだと思うのです。あまりこの辺をツッコミ始めると、先に進まなくなるので、一旦ワキに置いておいて、この考え方を補強するために、音楽学者クルト・ザックス Curt Sachs を引用します。クルト・ザックスは、同署の多くの箇所で引用されています。

「ザックスは人類にとって最初の音楽を求め、文明とは縁のない未開部族の生活へ眼差しを向けたのでした。そして、次のように結論づけています。「ほとんどの未開人がみずからの音楽をもつといえるだろう。———中略———しかし、最も発達段階の低い社会に属する人々は、歌は歌うけれど、楽器はもっていない。つまり音楽はうたうことから始まったのである」(同ページ)

この田村によるザックスの引用は、クルト・ザックス『音楽の起源』(皆川達夫・柿木吾郎訳、1965年、音楽之友社)からです。



このザックスからの引用に、田村和紀夫は次のように付け加えます。

「音楽がどういう目的、あるいは社会的機能をもつにせよ、「現象」としては、うたうことから始まったというのです。うたわれるのは「旋律」ということになるでしょう」(同ページ)

んー、これに関しては非常に微妙ですね。まず、全ての「うたうこと」は「旋律」である、というのが、本当に事実なのかどうか。これが先ず検討されなければなりません。ただ、これはかなり至難の業です。地球上の非文明的な部族の歌を全て収集しなければならない。

また、この問題をクリアしたとして、次に、音楽は(少なくとも未開においては)「旋律」から始まったというのも、検討の余地があります。これで以って、音楽を音楽たらしめるのが「旋律」であると決めるのは、結論を急ぎすぎている印象があるのです。というのも、「旋律」が成立するためには「リズム」が必要だからです(「リズム」については、当ブログエントリー「音楽の根源的な姿」を参照してください。といか、第4章で「音楽にとって根源的なのはリズム」とか言いながら、いきなり第5章冒頭で「音楽は歌から始まった」とかいわれると、ちょっと読み手としては ? な気分になります)。メロディーとリズムは等根源的・等始源的です。どちらが優先されるということはない。リズムがなければメロディーは絶対に成立しません。メロディーがなければリズムは成立しない、というのは、今のワタシにはよく分からないのですが、「リズムがなければメロディーは絶対に成立しない」というのは、コレは確かに言えます。

だから、「音楽は「現象」としてうたうことから始まった」「うたわれるのは「旋律」」、したがって音楽は「現象」として「旋律」から始まったというのは、やはり言葉が足りない気がします。

あとは、これもテーマがデカすぎるので、あまり精確には言えないのですが、ざっくばらんに言えば、西洋的な考え方としての「音楽」「メロディー」を非西洋的な(西洋がそれとして認めているところの)音楽に当てはめて音楽について説明・記述はできるのか。この問題も孕んでいます。

と、話題が逸れましたので、田村和紀夫からの引用を続けます。もうなんか、田村和紀夫の引用というか、ザックスの孫引きみたいになっているのですが(笑)

「さらにザックスは続けます。最初期の歌は二種類に分けられる、と。ひとつは言葉から発生する、いわば言語起源のタイプだといいます。このタイプは、二音の間を行き来する様式を示し、平坦なメロディになります。多くの場合、そうした歌は単に言葉を唱えた結果であり、自立的な音楽行為とは認めがたいかもしれません」(p. 124 – 125)

「ザックスが唱えるもうひとつのタイプは、感情起源ともいうべき旋律です。これは「叫び」に近いと考えられます」(p. 125)

いずれも前出書であるザックス『音楽の起源』からの田村和紀夫の引用です。

「自立的な音楽行為」とは?

この部分の問題は、次の点だと考えられます。つまり、田村和紀夫は「自立的な音楽行為とは認めがたい」と書いていますが、では、

(1)「自立的な音楽行為」とは何でしょうか。もしくは、

(2)「自立的な音楽行為」はそもそも成立するのでしょうか。さらには、

(3)「自立的な音楽行為」が仮に成立するなら、本書全体は、田村和紀夫が理想とする音楽像があり、これを元に「音楽とは何か」を論じているに過ぎないのではいか

もし、「本書全体は、田村和紀夫が理想とする音楽像があり、これを元に「音楽とは何か」を論じているに過ぎない」のであれば、しかし、コレから漏れつつも音楽と認められる音現象が必ず存在するはずです。こうした「漏れている」音楽について、どのように考えれば良いのか。こうした「漏れている」音楽についても考えなければ、「音楽とは何か」という表題で論じることはできないのではないか。

と、第5章は(も?)ちょっといろいろ考えさせられる章です。

参考文献

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