「古楽」については、以下を参考にしてください。
さて、中世からルネサンス、バロックの時代にも、「民間」「庶民」の音楽は存在していましたが、現在では残っていません。この理由について、金澤正剛は次のように述べています。
「ところが一方、そのような〔民間・庶民の〕音楽は後世に残る可能性が最も少ない音楽でもある。それはどうしてか。答えは簡単である。そのような音楽を価値あるものと認めて、後世にまで残そうと、楽譜に書き写すことを思いついた人がいなかったからである」(金澤正剛『新版 古楽のすすめ』(2010年、音楽之友社) p.227)
当時の人が価値あるものと認めなかったのだから、当時の特徴的な音楽と認める必要はないのでは? という反論ができそうですが(笑) いや、すみません、できませんね(笑) この辺の話題は、小泉文夫の民俗音楽研究とも関連してくるのかもしれません。もう少し読み進めましょう。
「だいたい庶民にとっては、面倒くさい文字などというものが読めなくとも、言葉さえ通じれば事足りた時代の話である。さらに複雑な楽譜などというものが読めるのは、ごく限られた人々、つまり学者か、聖職者か、知識階級に属するディレッタントぐらいなものであった」(同書 同ページ)
つまり、残されたものから解るのは、当時のある一部でしかない、ということです。続いて、「職業作曲家」が話題になります。
「職業作曲家たちでさえ、必ずしも楽譜を読むすべを習得していたわけではないし、その必要性すら感じていなかった可能性が強い。器楽の名手たちも、楽譜などにはとらわれずに即興でのびのびと、自由自在に弾きまくっていたことだろう。歌い手たちにとって重要なのはむしろ歌詞であり、それをつけて歌う旋律の方は、言葉と一緒に難なく記憶してしまっていたに違いない。つまり楽譜などというものは、一般庶民にとっては無用の長物だったのである」(同書 同ページ)
「楽譜」が「無用の長物」とは! かなり大胆な言い方です。しかし、現代の庶民の音楽を考えてみれば、至極当然のことかもしれません。例えば、テクノは楽譜を必要としません。私の予想ですが、今から500年後、テクノという単語が未来のマニアックな民俗歴史書に記されることはあるでしょうが、実際のテクノの音源は残されないでしょう。
『〜 古楽のすすめ』でも、現代の庶民の音楽と比べています。
「同じようなことは今日の世界においても言えるのではあるまいか。そもそも民謡の名人などと呼ばれる人の中で、楽譜を見なければ歌えないなどという人に出会ったことがあるだろうか。また最近のカラオケ・ブームに乗って歌いまくっている喉自慢たちのうちで、楽譜にかじりついて歌っているなどという人が、いったい何人いるであろうか」
さすがにテクノの例はありませんね(笑)
さて、ここまで読んできましたが、注意しなければいけないことが、3点あるのではないでしょうか。
- 楽譜に残されていない音楽だからといって、価値のない音楽ではない
- だからといって、楽譜的能力が無意味なわけではない
- ただ、楽譜的能力と、実際に音を出す能力とは別モノである
要するに、楽譜的能力があっても、楽器や歌が下手であれば意味はありません。楽譜的能力の向上に伴って、楽器や歌の能力が向上することはあります。しかし、楽器や歌の上手な人全員が、楽譜的能力に長けているとは限りません。
とにかく、「残されたもの」にのみ注視するのは、物事のある一面しか捉えられない、ということでしょう。