さて、今回は楽譜の必要性(厳密に言うなら、「記譜」の必要性)について興味深い記述を紹介します。バッハ以後の音楽が、バッハ以前の音楽といかに新しいかを述べることで、バッハ以前は古い音楽 = 古楽だった、という説明のなかの部分です。 続きを読む
「 ノート 」一覧
「聴衆の存在を必ずしも必要としない」音楽
金沢正剛(2010)『新版 古楽のすすめ』(音楽之友社)を参考に、自分なりに「古楽」について学んで、さらにこれを曲解している(笑) ところです。「曲解」については、以下の記事を参考にしてください(笑)
さて、今回も『新版 古楽のすすめ』を「音楽活動に対するオルタナティヴな提案」(笑)として曲解しつつ引用します。 続きを読む
作曲家・演奏家・聴衆
金沢正剛(2010)『新版 古楽のすすめ』(音楽之友社)を参考に、自分なりに「古楽」について学んでいるところです。
音楽会の変化で、『新版 古楽のすすめ』は、単なる古楽についての説明ではなく、こんにちの音楽活動に対するオルタナティヴな提案(※私は「オルタナティヴ」と言いたいだけです(笑))書としても読める! と、曲解したわけですが、今回はさらに曲解します(笑)
さて、「バッハ以後」の音楽が、作品においても活動においても新しくなったことにより、「バッハ以前」は古い音楽だったのだ、という「第一章 古楽とは何か」ですが、作 曲 家 ・ 演 奏 家 ・ 聴 衆 の 誕 生 とも言える話題へと移ります。
古楽とは何か、古楽の定義 2
では何故、バッハが境目になるのでしょうか。『新版 古楽のすすめ』によると、 続きを読む
古楽とは何か、古楽の定義
「文字通り「古い音楽」である」(金沢正剛(2010)『新版 古楽のすすめ』音楽之友社p. 23)
これでは分からない(笑)。続けて、こう述べている。
金澤正剛『新版 古楽のすすめ』「まえがき」のノート
現在読んでいる、 金澤正剛『新版 古楽のすすめ』「まえがき」のノートです。小節線のある/なしについて、興味深い考え方があったのでメモ。
小節線のある/なしについて
「十五~十六世紀のポリフォニーの楽譜においては、今日のスコア方式の楽譜と異なり、それぞれの声部が別々に記されている。つまりテノルはテノルの旋律だけを、バスはバスの旋律だけを見て歌う。その点では今日のオーケストラのパート譜と同じであるが、拍子を示す小節線が引かれていない点が違う。各声部はそれぞれ基準となるタクトゥスに合わせて、強弱に関係なく、のびのびと歌う。アクセントはそれぞれの声部の歌詞の付け方にしたがって付ける。そこで各声部はそれぞれ独立した動きを続けながら、重なり合って素晴らしい調和の世界を生み出す。それこそがこの時代のポリフォニーの醍醐味である。 続きを読む
金沢正剛『新版 古楽のすすめ』で紹介されている音楽
- パレストリーナ(バッハ以前の音楽家)
- 『ダニエル物語』(中世の典礼劇)
- ジョン・ダウランド(16 – 17世紀イギリスの作曲家、リュート奏者)
- パーセル(17世紀イギリスの作曲家)
- ロココ音楽(イタリアのバロック音楽と同時代、優雅で繊細なフランスの音楽)
大友良英「福島のフェスも土地に根ざしたフェスなんかでは全然ない」
雑誌『アルテス』創刊号の、巻末インタビュー見出しのことば。大友良英にとっては、高橋悠治とは異なり、東日本大震災以降の音楽が必要ということなのだろうか。 続きを読む
高橋悠治「震災によって何が変わるんですか」
「そりゃだって、地震が起こっても津波が起こっても、芸術が変わったというためしはないですよ。津波でいえば、スマトラ島の大津波があったでしょ。あれでなにかありました? 新しい芸術、ないでしょ。それはありえることではないんですよ。ポルトガルで一八世紀に大地震があった。ヴォルテールが書いているのは、いかに悲惨だったかということで、それと思想はなにも関係がない。それはレポートなんです。だから、ここでみんながそのことを問題にしても、現実に震災にあった人は誰も救われない。それは政治の問題なんですけど、いかにみんなががんばっていたかということを強調するだけ。そういうことで新しいものが生まれようがない。そういうことを言えば、メディアでバッシングされる。そういう国が日本なんですよ。だから新しいことはここでは起こらない。ただ、みんながそれについてひとこと言って、原稿料をもらうということです」(高橋悠治「問いかけながら道をいく ——— 今までの音楽は変わる時期にきている」(2011)『アルテス Vol.01』p. 112)