「聴衆の存在を必ずしも必要としない」音楽

金沢正剛(2010)『新版 古楽のすすめ』(音楽之友社)を参考に、自分なりに「古楽」について学んで、さらにこれを曲解している(笑) ところです。「曲解」については、以下の記事を参考にしてください(笑)

さて、今回も『新版 古楽のすすめ』を「音楽活動に対するオルタナティヴな提案」(笑)として曲解しつつ引用します。

「そしてなかには、聴衆の存在を必ずしも必要としない作品も存在した」(金沢正剛(2010)『新版 古楽のすすめ』音楽之友社 p. 32)

(「必ずしも必要としない」という表現がちょっと気になるますが(必ず必ず要るとは限らない? てどういうことだ?))、個人的には「えぇぇっっっぇっっえええええ???????」となる部分です。

というのも、何かしらの表現活動をするにあたって、発表相手の有無というのは、けっこうデリケートな問題だと思うんですが。例えば、 誰 に も 発 表 し な い 小 説 というのは、表現活動と言えるか、など。この部分から解するに、発表相手がいなくても、(とりあえず古楽においては)音楽として成立していたんだよ、ということができるかもしれません。

では、「聴衆の存在を必ずしも必要としない作品」とは何でしょうか。

「例えば十三世紀から十四世紀にかけてさかんに作曲されたモテトゥスという曲種がある。通常三声部、または四声部のために書かれているが、それぞれの声部には異なる歌詞が付いていて、同時に歌い始めるのを聴いてみると、何を歌っているものやらさっぱり聴き取れない。しかも中にはひとりがラテン語で、もうひとりがフランス語で歌うなどという例さえある」(同書 同ページ)

スゴいっす(笑)。カッケェす。今でいうならこれは、もうパンクだよ、パンク(笑)。まあ、例えば、何でも言いと思うんですが、そうですねえ、無難に The Beatles で例えますか(笑)。想像してみましょう。〈All You Need Is Love〉の歌の旋律を、世界各国の人がその国の公用語で同時に歌っている・・・、パンクではない、愛だ、愛(笑)。それに加え、いわゆる伴奏にあたる部分も全部 声 で構成されていて、まあ、アカペラみたいなのだけど、その伴奏の部分にも全ッ部歌詞が付いていて(笑)、しかも言語が違う、みたいな。

愛だな。

話がそれましたので、『新版 古楽のすすめ』に戻ります。モテトゥスについて、説明が続きます。

「これは明らかに自分たちで歌うために作曲された作品で、ほかの人に歌って聴かせようなどという考えは初めから起こらなかったために起こった現象である。自分たちで歌うためならば、一緒に歌ったときに音楽的に合えばよいわけで、歌詞は歌って本人が知っていれば、それでよいのである」(同書 p.33)

要するに、発表する相手などいなくても、音楽活動として認められていたし、現代では「作品」として認められている、と、そういうことでしょう。

そして、このような事実が歴史的に認められている限り、現代においても、例えば、1人で部屋にこもって誰にも発表せずにこつこつと DTM でエレクトロニカを作っている人の音楽が、表現ではない、とか、音楽活動ではない、とか、価値なんてない、などと言われてはならない、と、そういうメッセージが込められているんちゃうんかなあ、と私は曲解するわけです。


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