作曲家・演奏家・聴衆

金沢正剛(2010)『新版 古楽のすすめ』(音楽之友社)を参考に、自分なりに「古楽」について学んでいるところです。

音楽会の変化で、『新版 古楽のすすめ』は、単なる古楽についての説明ではなく、こんにちの音楽活動に対するオルタナティヴな提案(※私は「オルタナティヴ」と言いたいだけです(笑))書としても読める! と、曲解したわけですが、今回はさらに曲解します(笑)

さて、「バッハ以後」の音楽が、作品においても活動においても新しくなったことにより、「バッハ以前」は古い音楽だったのだ、という「第一章 古楽とは何か」ですが、作 曲 家  ・ 演 奏 家 ・ 聴 衆 の 誕 生 とも言える話題へと移ります。

「今日では作曲家が作曲し、出来上がった曲を演奏家に渡し、演奏家はそれを聴衆のために演奏する、という分業が確立してしまっている。たまに作曲家の中に名演奏を披露する者があらわれるが、それはむしろ例外的存在である。また特に聴衆は、聴くのが専門であり、音楽に対する態度は完全に受け身になってしまっている。

古楽においては、事情はかなり異なっていた。つまり三者の関係は、それほど明確には区別されていなかった。作曲家はたいてい、演奏家も兼ねていたし、聴衆も今日のように完全に受け身で聴いてばかりいたわけではなかった。ときには積極的に演奏に参加したりもしたのである」(金沢正剛(2010)『新版 古楽のすすめ』音楽之友社p. 32)

ここに引用した「音楽」というのが、いわゆる ク ラ シ ッ ク 音 楽 (この単語、私は大嫌いなのですが(笑))を指していることを忘れてはいけません。しかし、「作曲家」「演奏家」「聴衆」の「分業が確立」しているのは、ポピュラー音楽においても事情は似ているでしょう。

ロックバンドやクラブミュージック、また、ソロシンガーのなかには、作詞・作曲・演奏をするポピュラー音楽家はいますが、それでも、 演 奏 する段階では、また別の プ ロ の演奏家へ 仕 事 を 依 頼 す る 場合があります。

最も顕著なのは、「作曲家・演奏家」と、「聴衆」の「分業」でしょう。こんにちでは プ ロ の 音 楽 家 (この単語も、私は大嫌いなのですが(笑))でなければ、ほとんどが「聴衆」です。そうでなければ、アマチュアの音楽家は 真 剣 に 音 楽 に 取 り 組 ん で い な い 連中という烙印(笑)を押されるでしょう。

このような現代の音楽状況(音楽市場状況?)の全てがダメだというワケではありません。このように「分業」化されて問題になるのは、「作曲家」あるいは「プロの音楽家」(笑)至上主義的な考え方が蔓延しているのではないか、ということです。音楽を「聴く」「仲間内でライブをする」「だらだらスタジオで楽器を鳴らす」などなど、すべての音楽行為は本来、平等であるべきです。

しかし、「分業」が確立した現在、例えば、誰かが「作曲している」というと、「スゴいね〜」とか、逆に「そんな曲しか作れないの?」と返答されるでしょう。

では、「聴衆」(だいたい、この単語がダメだろ、「衆」って。「聴く人間一人ひとり」という考え方が欠落しているのではないか)は音楽をしていないのか。 真 剣 に 聴 く という行為は、 作 曲 よりも劣るのでしょうか。

これにはっきり答えられなければ、「作曲家がエラい」などと、一概には言えないでしょう(もっとはっきり(とか言って括弧内なんですが(笑)言いましょう。こうした「分業」が行き詰まった結果、ここ10年のような「音楽産業の不景気」というのが起こっているのではないでしょうか)。

聴衆が「ときには積極的に演奏に参加したりもした」古楽の状況というのは、現在よりもかなり健全な音楽活動だったのかもしれません。


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