音楽を比喩に使いたいのはわかるけど, やっぱりなかなか簡単にはいかないっすね: 中島義道「多くの人にとって、哲学が「アホらしい」理由」を読んで

哲学者の中島義道が東洋経済 ONLINE で連載中の「哲学塾からこんにちは」の最新記事, 「多くの人にとって、哲学が「アホらしい」理由」が 9 月 4 日に更新されました.

記事の内容自体には大きくうなずくところがあり, 大変興味深く読みました.要するに, 中島の「通俗書」を読んだ方が, 中島主催の哲学塾に参加しても, 多くの場合, 参加者にとっての哲学がイメージと異なり, やめていってしまう, という話です. 中島って哲学書とそうでない本をかき分けてるんですね.

「私は哲学の専門書と通俗書を(器用に?)書き分けていて、後者は厳密には「哲学」ではなく、(誰でも書ける?)ただの人生論ないし生き方論」

哲学書に参加しても, カントやヘーゲルなどの古典をコツコツ読むだけ. いや, これってすごく大事なことで, でもこれにがっかりする人がいる, と. それで, もっとやっかいなのは, カントやヘーゲルなどの古典をコツコツ読んでいってもそれで以って哲学しているとは言えず, また, 哲学者になれるわけでもない.

ざっくり言えばこういう感じで, あ〜, わかるわ〜, てなったんですが, 一点だけ, 哲学者と哲学研究者との違いを説明するところで, 音楽を比喩に出していて, それはちょっと違うかな, と思いました. ので, メモ程度に書いておきます.

それで, 該当箇所の引用.

「多様な哲学説の間を泳ぎ回った末に、無事自分に適した港に漂着して、カント屋(カント研究者)やヘーゲル屋(ヘーゲル研究者)やハイデガー屋(ハイデガー研究者)になればいい(と言っても、それぞれ一流になるには大変な労力がかかりますが)。

しかし、こうした専門家もまた(いかに一流であっても)厳密な意味では哲学者ではなく、哲学研究者という名の哲学・学者です。ちょうどモーツァルト研究者が、作曲家ではなくて、音楽・学者であるように」

非常にわかりやすく, 理解した気になれる部分で, 哲学者と哲学研究者のところは, 全面的に賛同できないにしろ, うなづくことができます ( どっちや ).

哲学者と哲学研究者の違いについてはここでは立ち入りません ( これ以降もこのブログでは立ち入りません!). 気になったところはもちろん, 「モーツァルト研究者が、作曲家ではなくて、音楽・学者であるように」というところです.

この部分で中島は, 哲学については, 「哲学者」と「哲学・学者」( = 「哲学研究者」) を対比させているのにもかかわらず, 音楽については「作曲家」と「音楽・学者」を対比させています. が, 本当なら「音楽家」と「音楽・学者」を対立させるべきではないでしょうか.

「中島は, 真の音楽家とは作曲家だけである, と考えている」とまでは言いませんし, ただの web 記事に変にツッコミ過ぎても野暮なだけですれども.

中島の言うとおり, おそらく, 真の哲学者と呼ばれるためには, 相当厳しい哲学的思考の積み重ねが必要なことでしょう. たぶん. いや, そうとも思わないけどね, ほんとは. でもそこは置いといて. しかし音楽家に限って言えば, 真とか真じゃないとか, そういうことを言えるものなのでしょうか. また加えて, 音楽の特殊な要素として, 「演奏」があります. 演奏家は立派な音楽家ですが, では, 演奏家は哲学界隈においてどのような立場に位置するのでしょうか.

またたとえば, クリストファー・スモールの「ミュージッキング」という概念に従えば, 研究者も立派な音楽家と言うことができます ( 「ミュージッキング」に賛成するかどうかは別にして ) .

なんてね.

まあ, 中島は書いているそのまま・額面通り, 哲学者と哲学・学者の対比について, 音楽を比喩に用いて説明しているのではなく, あくまで比喩としては作曲家とモーツァルト研究者 ( = 音楽・学者 ) を対比させているのだ, 何も音楽一般を比喩に用いているわけではない, と言えなくもないですが.

音楽を比喩に用いたいという気持ちはわかりますし, わたしもしばしば用いてしまいますけれども, なかなかうまくいかないものですね.


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