キェルケゴール著、井上 良雄訳『キリスト教の修練』(新教出版社) -宗教と芸術について-

『キリスト教の修練』第3部6では、「キリスト教芸術」非難が行われている。いわく、キリスト教芸術はキリスト教の讃美であり、信従ではないため、真のキリスト教ではない、というのである。

ここでこの著作が分からなくなった。というか、もともとついていけなかったのが、もっとついていけなくなった。

では、われわれが現代親しんでいるキリスト教芸術は、すべて真ではないキリスト教であり、したがってこれを通じてキリスト教の、もっと言えば、キリストの何であるかを理解することなどできない、ということであろうか。そう言って良いのだろうか。

キェルケゴールなら、「そう言わなければならない」、と答えるであろう。

またでは、キェルケゴールの言うように、真の宗教はキリスト教のみであり、真の宗教であるキリスト教において芸術が否定されるのであれば、すべての芸術が否定されなければならないということなのか。

長年、芸術を信望してきた私にとって、このような考えは非常に過激であり、衝撃的なものである。

どうにかして、これに反論することはできないのか。

しかし、〈反論するということそれ自体が信仰の前では不可能である〉。

ただ、例え不可能であっても、許されるのであれば、次の問いをここで提出したい。つまり、〈信従としての芸術は可能か否か〉。言いかえれば、〈信仰としての芸術は可能か否か〉

芸術の本質が「讃美」であるなら、信従としての芸術は不可能である。ただここに、芸術を新たな段階へ移行させる契機を見出せる気がしてならない。その契機とは、〈信従としての芸術〉である。芸術の本質を〈讃美〉から〈信従〉へと変質させることで、芸術は新たな段階へと移行するのではないか(既にこのような試みが行われているのであれば、教えていただきたい)。なお、キリスト教以外の宗教で〈も〉、広義の芸術的行為が宗教行為と同一である例が多々見出されるが、これらの芸術的行為が讃美を目的としている限り、そこに信仰と結びついた芸術を見出すことはできない。〈しかし〉、例えば或る宗教において〈神が踊っている〉のであれば、踊りという芸術的行為は信従としての芸術行為でありうるのではないだろうか。

自分自身が最も下劣な躓き者であるという恥を承知で問うと、キリスト教だけが真の宗教なのであろうか。換言すれば、信仰とは何であろうか。

もっと問おう。自分自身が最も下劣な躓き者であるという恥を承知で問うと、(これは半ば私の中で〈否!〉という回答があるのだけれども、)宗教だけが唯一であろうか、信仰だけが唯一であろうか。

こうして、『キリスト教の修練』で以って終わらそうとしていた、信仰についての自分の思い巡らしは、むしろ、出発点に立ったようにである。すなわち、『キリスト教の修練』で以って思い巡らしてもなお、〈信仰とは何か〉という問いは残るのである。これはこう言ってよければ、〈信仰の可能性への探求は可能か否か〉という問いである(もちろん、キェルケゴールはこのような問いを一笑に付すであろう)。

とどのつまりこれからは広く、キェルケゴール以外の〈宗教論〉を読まねばなるまい。或る思い巡らしの終わりはまた新たな思い巡らしの出発点である、という当然のことに、『キリスト教の修練』は気付かせてくれたのである。


1.非キリスト教界における信仰について
2.宗教と芸術について


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