この記事は『The Oxford Handbook of Western Music and Philosophy』「序論」の読書ノートです。
『The Oxford Handbook of Western Music and Philosophy』の序論では、音楽と哲学の関係性を探ることがこの書籍の主な目的であることが強調されています。
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『The Oxford Handbook of Western Music and Philosophy』の序論では、音楽と哲学の関係性を探ることがこの書籍の主な目的であることが強調されています。
続きを読む以下は、2012年に小さな音楽理論のサークルである Music Theory Workshop Japan で発表した「音楽とは何かについての試論」の原稿を、一部ブログ用に修正したものです。
詳しくは、
を参考にしてください。
本論の目的は、「音楽とは何か」を問うこと、第一にこれにある。また、この問いへの一定の結論を試みるとともに、結論から逸脱する諸課題を列挙することにある。
「音楽とは何か」、何故、この問いが問われるのか。音楽は音楽が鳴っている・演奏されているその時間・空間においてのみ存在する。そうであれば、これ以外で以って、すなわち、音楽が鳴っていない・演奏されていない時間・空間において問い、これに一定の結論を与えることはそもそも不可能なのではないか。多くの者にとっては「そう言える」であろうし、あるいは、「そうとは言えない」と主張する者もいよう※1。ただ、このような性質を有しているとは言え、「音楽とは何か」を問うことの有意義さを見出すことはできる。すなわち、この問いを問うこと、そしてこの問いへの一定の結論を試みることは、「音楽がわれわれにとってより身近であること」、言い換えれば、「音楽行為はすべて平等であること」を示すであろう(3.(1)音楽の倫理?)。かつ、「一定の結論を与える」ことにより、「定義付け」がなされるわけだが、音楽を含むあらゆる芸術行為は、定義から逸脱することにより、より豊かになってきたと考えられる。したがってこの問いを問うことは、これが成功した暁には、音楽を豊かにする可能性を有する。
※1 ジャン・リュック・ナティエ『音楽記号学』(足立美比古 訳、1996 年、春秋社)によると、「音楽作品は人が現に聴き理解している限りのものとしてしか存在しない」(序論 p. 8)という立場は常識的ではあるが、「音楽作品は人が現に聴き理解している限りのものに還元するわけにはいかない」(同)。なお、ナティエの著書『音楽記号学』についての検討は、別の機会に譲る。
「音楽とは何か」に対する一定の結論付け、言い換えれば定義付けは、現代までに様々に試みられ、整理されてきた。ここではその一部を紹介する。 まずは、最も通俗的で身近な「説明」の一つである、Wikipedia と『広辞苑 第六版』(2008 年、岩波書店)から検討してみたい。
音楽(おんがく、英: music)は、人間が組織づけた音である。音楽は、音のもつ様々な性質を利用して、それを時間の流れの中で組み合わせて、感情や思想を音で表現することができる。(http://ja.wikipedia.org/wiki/音楽)
音による芸術。拍子・節・音色・和音などに基づき、種々の形式に曲を組み立て、奏すること。器楽と声楽とがある。楽。ミュージック。日本往生極楽記「音楽空に遍く、香気室に満てり」(『広辞苑 第六版』「音楽」)
では、『広辞苑』の説明から検討しよう。『広辞苑』の意味の記述が、「意味の記述」の限界を示していることが看て取れるだろう。すなわち、「などに基づき」というのが、「意味の記述」の放棄を表している。次に、Wikipedia の音楽についての説明は成功しているのだろうか。Wikipedia の音楽についての説明は、「徳丸吉彦『音楽理論の基礎(’07)第 1 回』、2007 年、放送大学学園東京テレビジョン放送局・放送大学学園東京デジタルテレビジョン放送局、放送日 2010 年 2 月 21 日など」を出典元としている。そしてこの教材にはテキストがあり、同じく徳丸吉彦による『音楽理論の基礎』(※1) である。たしかにこの教材の冒頭には、「人間によって組織づけられた音響」が音楽であるという説明がある。しかしこれにも出典元があり、つまり Wikipedia の引用は孫引きということになるのだが、それが J. ブラッキング『人間の音楽性』(※2) 第1章のタイトルである。すなわち、Wikipedia の説明は、J.ブラッキングの引用ということになる。そしてこの「人間によって組織づけられた音響」こそ、後述する「音楽とは何か」についての一定の結論付けに関わってくる。このため、J. ブラッキングによる音楽の説明については後述する。また、福井一はその著書『音楽の感動を科学する』で、以下のようないくつかの音楽の定義付けを紹介し、かつ、自らも定義を試みている (※3)。
以上のような定義が疑わしいことは、熱心な音楽リスナーである皆様にとっては容易に看て取れるであろう。「リズムやメロディーで組織化されていない」、「明確な音程がない」「形式や構造の認められない」楽曲を聴いたことのある者はたくさんいるだろうし、あるいは、「私だけが音楽と認めている音現象」をもっている者もいるかもしれない。「少なくとも始めと終わりがあり」についてはどうであろうか? 「始め」はあるかもしれないが、「終わり」のない音楽は容易に思い付くのではないだろうか。そもそも福井による定義は、生理学的な観点からの定義であり、音楽の一面しか捉えることが出来ていない。さらにクリストファー・スモールは、音楽それ自体という考え方を否定し、「音楽すること」と翻訳できる「ミュージッキング」musicking という考え方を提唱している※4。しかし、スモールの場合、ミュージッキングという考え方は、音楽に限定されずに広く用いられるため、「音楽である必要はあるのか」、あるいは、「音楽することという行為、他の行為の境界は何か」という、新たな課題が提出されることになる。
※1 笠原潔・徳丸吉彦『音楽理論の基礎』(2007年、放送大学教育振興会)
※2 J. ブラッキング著、徳丸吉彦訳『人間の音楽性』(1978 年、岩波書店)
※3 福井一『音楽の感動を科学する』(2010年、化学同人 pp.83 – 86)
※4 クリストファー・スモール著、野澤豊一・西島千尋訳『ミュージッキング 音楽は〈行為〉である』(2011 年、水声社)
では何故、音楽の「定義付け」は脆弱なのだろうか。先ず、音楽を定義付けたところで、音楽家たちの中にはその定義から逸脱しようとする者がいるからではないだろうか。音楽がメロディーや音階のあるものであれば、ない音楽は成立しないのか? あるいは、リズム・パターンのない音楽は成立しないのか? そもそも、形式・構造のいずれかが欠落した音楽を想定できないものか等々。こうした逸脱は、それが発展や進歩と呼べるかどうかは別として、実験精神豊かな音楽家たちに試みられてきた。そしてその都度、こと西洋音楽における音楽の定義付けは更新されるか、あるいは破壊されてきたのである。
音楽家たちの実験精神によってだけではない。彼らの実験精神を触発した、音楽に関する技術革新もまた、音楽の定義付けを困難に(あるいは多様に・豊かに)している。西洋的な楽譜は、音を記録する始源的な手段の一つである。これによって、ヒトの生理学的な快苦から解放されたかのような楽曲が可能になった。また、アナログレコードに端を発する現代的な音楽記録媒体により、文字通りあらゆる音現象を楽曲として、あるいは音楽として記録することが可能になった。そしてそこには、音現象としての無音も含まれる。iTMS では、数多くの「無音」の音楽が売買されている。「無音」であっても、そこに作曲者の意図が込められていれば、それは楽曲として成立すると認める者が現れるのである。さらには、無限ループも(電気の供給が終わらない限り)原理上は可能である。また、こうした記録媒体だけではなく、楽器の技術革新もまた、音楽の定義付けを更新しつづけてきた。ボーカロイドの誕生は、未だ議論の余地があるにせよ、『広辞苑』による「器楽と声楽とがある」という意味付けを、無化しつつある。
それでは、音楽家や音楽技術による定義からの逸脱すらも包含する音楽の定義は可能であろうか。スモールの考え方は、一見成功しているように思われる。しかし前述の通り、「音楽である必要はあるのか」、あるいは、「音楽することという行為と他の行為の境界は何か」という課題が残り、これらの課題を検討するか、もしくは、ミュージッキングという考え方が方法として誤っているのではないかを検討しなければならない。
以上で紹介した定義は、その時代々々・地域の音楽について論じようとしているところにも(スモールの場合、この限りではないが、前述の課題がある。これについては後述する)、その脆弱性があると考えられる。ということは、定義付けの方法、言い換えれば、「何か」を問う方法について、検討しなければなるまい (※1)。
※1 音楽に関する「定義付け」については、ナティエ『音楽記号学』(前掲書)に詳しい。
では、「音楽とは何か」を問うためにはどのような方法を採用するべきであろうか。例えば田村和紀夫は、「音楽とは何か」を問うにあたり、「音楽はどのように始まったか」という方法を採用している (※1)。つまり、音楽の起源を追究することで、「音楽とは何か」と問おうとしているのである。その際、音楽の起源を追究する方法として、「一、考古学的方法、二、文化人類学的方法、三、現象学的方法」の三つを挙げている(p. 10)。田村の要旨はここでは省略するが、考古学的方法と文化人類学的方法は、音楽(を含む多くの学的探究の分野)の定義付けにおいてあまり有効であるとは言えまい。というのも、考古学的な、あるいは文化人類学的な方法は、帰納法にこれらの基礎を有しているため、反例の提出される可能性が充分にあり得るからである(むしろ、反例の提出される可能性があるからこそ、学術的方法として成立しているとも言えよう)。反例が提出されるのであれば、前述((1)(2))したような定義の脆弱さから免れることはできない。
では、田村の提示した、音楽の起源を追究する3つ目の方法である「現象学的方法」は、「音楽とは何か」を問うための方法として有効だろうか。田村は現象学的方法について、「認識のさいにわれ知らずもち込んでいる先入見のいっさいを括弧ににくくり、現象それ自体に還れというもの」(p. 11)と説明している。現象学が、或る対象の起源を追究する方法として採用することができるかどうかという課題は生じるし、田村の説明はいささか不十分ではあるが、本稿の主題は現象学ではないし、田村批判でもないので、これらの課題・不十分さにはここでは深くは立ち入らない。そうではあるが、フッサールが提唱した現象学は、ハイデッガーが「事象そのものへ」という格率で言い表したように、「おのれの示すものを、それがそれ自身の方から現れてくるとおりに、それ自身の方からみえるようにすること」(『存在と時間』p. 34)である。このハイデガーが言い表した格率の意味を、本論の主題に関して言い換えれば(ハイデッガーは、「現象学は、存在論としてのみ可能のである」(p. 35)とし、かつ、「現象学は存在者の存在の学———存在論である」(p. 37)とはしているが)、「音楽の示すものを、音楽が音楽自身の方から現れてくるとおりに、音楽自身の方からみえるようにすること」と言いかえることができよう。つまり、「音楽とは何か」あるいは「音楽の定義」について、音楽をその各要素に還元したり音楽以外の分野から研究しようとせずに、あくまで、音楽の方から問うこと。これが「音楽の現象学」の目指すところということになる。したがって、われわれが「音楽とは何か」を問う、あるいは、「音楽の定義づけ」を試みる際に、現象学を採用するべきであると考えられるのである。
しかし、このような問い方は可能なのだろうか。例えば、拍子・節・音色・和音などの諸要素に還元せず、もしくは例えば、生理学からアプローチせず、いわば音楽全体から「音楽とは何か」を問うことはできるのだろうか。次からは、「音楽の現象学」は可能か、あるいは、「音楽と現象学」の関係について、検討してみたい。
※1 田村和紀夫『音楽とは何か ミューズの扉を開く7つの扉』(2012 年、講談社)
以下は、2012年に小さな音楽理論のサークルである Music Theory Workshop Japan で発表した「音楽とは何かについての試論」の原稿を、一部ブログ用に修正したものです。
ずーっとこ本サイトに載せようと思っていたのですが、なかなか気が進まないまま、2年経とうとしていて、その間に「おとな10歳記念パーティー」なんかをして、その中でけっこう踏み込んだことも言ってしまっていて。
音楽の 現 象 学 というタイトルに偽りない、中身の濃い、私の読んできた中で最も音楽の本質を衝いている本のうちの1つです。ページ数が短いからと言って、しかもその1/3程度がコンサート記録や、誰 得 の セ ル ジ ュ お じ い ち ゃ ん モ ノ ク ロ グ ラ ビ ア (本当に誰が得するんだよ! 要らねえよ! 本の値段高くするために無駄なページ作ってんじゃねえよ!)であるからと言って、侮ることはできません。チェリビダッケの一言一言は、膨大な注釈が必要でしょう。つまり、チェリビダッケが何を言おうとしているのかを、単語ごとに、文節ごとに、文ごとに・・・、確認しながら読まなければなりません(つまり、かなり読み難い。これは翻訳にも原因があるのかもしれません)。