クリストファー・スモール著、野澤豊一・西島千尋訳『ミュージッキング 音楽は〈行為〉である』(2011年 水声社)、「プレリュード 音楽と音楽すること」(序章に当たります)のノートです。以下も参考にしてください。
音楽作品の意味と,「音楽とは何か」という問い
「ところで、もし音楽なるモノがないのなら、「音楽の意味とは何か?」という問いに答えなどあるわけがない。西洋音楽を研究する学者たちは、このことを直観的に理解していたらしい。しかしかれらは、〔中略〕「西洋的伝統の音楽作品群」に音楽の意味をあてがってしまった」(p. 20、〔〕内は引用者)
先ほど、「音楽学者」という単語をサラリと使ってしまいましたが、つづいてスモールは、この「音楽学者」という単語、ひいては「音楽」という単語の「使われ方」を批判します。
「「音楽」という言葉の使われ方にも、似たようなおかしさがある。大学やカレッジや音楽学校で音楽学部といえば、また高級紙で音楽批評といえば、それらは実際には「クラシック」のことを言っているのだ。くわえて、音楽学という学問も(当然ながら)ほとんど西洋クラシック音楽にしか関わっていない。クラシック以外のその他の音楽文化 other musics (これにはポピュラー音楽も含まれる)はといえば、「民族音楽学」と呼ばれる分野があつかうことになっている(西洋のポピュラー音楽の本当に音楽的な研究———とはいえ従来のクラシック研究とはまた違った意味での音楽的な研究———は、まだ始まったばかりで、未だずうずうしくも「音楽学」を名乗るにはいたっていない)」(p. 21)
音楽学における「民族音楽」や、「ポピュラー音楽」の地位は、同書の原書が出版された当時(1998年)に比べ、かなり改善されているとは思う。
しかし、それでも未だに、「音楽学」の権威がいわゆる「クラシック」にあることは、状況としては変わりないでしょう。それは、例えば民族音楽やポピュラー音楽の「面白さ」を分析上で、クラシックが基準となっていることから容易に理解できます。例えば、民族音楽の面白さが語られる際には、五線譜では表すことができないといった文句がよく見受けられます。この文句からは、民族音楽学であれポピュラー音楽学であれ、いわゆる「クラシック」以外の或る特定の音楽の内部に留まりつつその音楽を分析・考察できていないことが、看取できます。