「音楽について「書く」ということ」への非完結的・非学問的な後書

えー、1月2日付けの本サイトの記事、つまり、正月にモチ食って半分酔っぱらってぐだぐだ書いたエントリーがですね、なんと! ワタシのような音楽ライターとか批評家とかそういう人間でない在野の音楽愛好家のブログにしては珍しく! 普段は1日50〜100程度・・・、1ヶ月の PV が2000にいくかいかないか・・・、という超・過疎サイト(笑) なんですけれども! はてなブックマーク50以上! Twitter でも100近くの tweet! そして 1000 PV超え! ということでですね、非常に多くの方に読んでいただいておりまして、大変嬉しく思っております。tweet に関してはワタシが RT しまくっておりますので、半分はワタシ( @xngyz )なんですが(笑) ですので、はてブして下さった方。と、Twitter でつぶやいていただいた方。というのはだいたい同じくらいの数なのかなあ、っという感じです。

おそらく、Twitter 上で、やおきィホームズさん( @yaoki_dokidoki)がきっかけになって、それがはてなブックマークを中心にちょっとずつ広まって・・・、という感じだったと思います。と、いうことで、Twitter 上でも御礼申し上げましたが、改めて、当ブログを取り上げていただきましたやおきさんにはありがとうございます! と。この場を借りて御礼申し上げます。って、御礼申し上げた過ぎてここまでで御礼という単語を4回も使ってしまいましたが(笑)

えー、とですね、PV が500を超えたくらいから、ちょっとコレは「後書」みたいなものを書かねばなるまい・・・と考えるようになりまして。と、いうのもですね、あんま、そのー、自分の発言がココまで広まったことはなくてですね、コレは、ちょっと、解説入れないとマズいんじゃないか、と。かなーりイイカゲンに書いたモノですし、読まれないことを前提に(笑) インターネットで絶対にそんな前提なんてしちゃいけないんですが(笑) 書いたモノですので、いろいろなルール違反(パクリとかじゃないっすよ!(笑) パクリじゃないけど、自分の中で決して許されないルール違反です)をしておりまして。1000 PV 超えたら解説書くか、と考えている間に1000 PV を超えてしまいまして(笑) じゃー、解説を書きますか! ということで。只今ぽちぽちキーボードを打っている次第です。

まあ、2度とね、こんなふうに読まれることなんてないでしょうしね。記念後書ですよ、記念。

で、解説をどういうふうに書くか。と。スグ決まったのは、1.「ルール違反」を釈明すること。コレについては、この後、スグ書きます。また、2.「〜ではない」というかたちで、補足説明をすること。これはあっさり書きますか。

また、迷ったのは、4.「文体」についての言い訳ですかね。これについては、本筋ではないので、ちょっと迷ったんですが、やります。

それで、けっきょくこれは迷いに迷って、やらないことにしたんですが、Twitter とかはてブでいただいたコメントを紹介する。まあ、時間があったら、別エントリーでします。まだ増えるかもしれませんし。

で、最後に、ちょっと「音楽について「書く」〜」で誤解を生んでるんじゃないか、と思われる点について、補足します

ということで、解説のような後書のようなです。フツー、まあ、「後書」というのはですね、本人が書きますけど、「解説」は他の人が書きますよね、本とかだと。でもですよ、過去の偉大な思想家の中にはですね、「後書」という実質的な「解説」、もしくは冗長な「言い訳」をですね、独立した書籍として発表するという(笑) かなりのハナれ技をされた方もいらっしゃいまして、しかも「後書」の方が長い! っていう、まあ、ワタシの好きなキェルケゴールなんですが(笑) 彼には『哲学(的)断片』という著作があるのですが、これへの『非学問的な後書』というのがですね、独立した著作としてありましてしかも『後書』の方が長い(笑) っていう。彼に尊敬の意を込めて、形式だけ。タイトルもパクりつつ。後書という本編よりも長大な、そして冗長な解説を自らの手で書こうと。そういう次第です。

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1.ルール違反

ここでいうルール違反とは、「音楽について「書く」〜」を書きながら、何となく援用した思想家たちの考え方を、その思想家たちの考え方として、紹介していなかった。この点にあります。なぜ紹介しなかったのか。えー、非常に言い訳がましくなりますが、まあ、この文章全体が長大な言い訳になっておりますので(笑) 別に構わないんですけれども、それで、なぜ紹介しなかったのかと。その、「援用した思想家たちの考え方」なんですが、かなーり不適切な方法で、もっというと杜撰に「援用」しておりまして。それで、杜撰、というのはどういうことかと言いますと。ふつう、或る思想家の考え方を援用しながら自分の考えを展開する際には、先ず、

(1)その思想家の名前を明記すること。

これは当然のことですが(それすらしなかった・・・その理由が(2)以下です)、

(2)その思想家の考え方を明確に理解すること、

そしてこの上で、

(3)著書などを「直接」参照し出典を明記すること。

とまあ、コレでもおおまかですが、こういうことをしないといけない。しかしワタシは今回、「音楽について「書く」〜」を書くにあたって、(2)と(3)をかなり不適切に行った。(3)にいたっては行いもしなかった。ということで、(1)もしなかった。何となく・杜撰に、他人の考え方を援用しているのにも関わらず、です。

つまり、或る思想家の考え方・概念・用語を、よく解ってないにも関わらず、自分の文章を何となく盛り上げるために、杜撰に援用してしまった。これが「音楽について「書く」〜」に潜んでいる、ルール違反です。

あ、ちなみに、

誰かのなかに音楽が鳴り響けば、それは誰かにとっても、その文章が音楽です

という、核の部分は、さすがに、書きながらドーッンとですね(笑) 思いついた部分です。他の方で似たような考え方をお持ちの方はたくさんいらっしゃるとは思いますが、コノ部分だけは、他の本からパクったりとか、そういうことはしておりません。まあ、ヒントはいっぱいありましたが。そのヒントというのが、以下に挙げた思想家たちです。

では、「音楽について「書く」〜」において良く解っていないながらも暗にその考え方・用語を参照した、思想家および、その思想家の著作を、以下に紹介することで、ルール違反への釈明に代えさせていただきます。

※なお、ワタシは只今、以上に紹介しました著作を、とある事情により直接参照できない環境におります。直接参照できるようになり次第、改めて本記事に、もう少し詳しく出典・引用などを追記する次第です

クリストファー・スモール Christopher Small

ニュージーランド出身の音楽学者です。

ワタシの思惑では・・・、書く・読むもまた、1つの音楽的「行為」です

という箇所で、スモールの考え方が援用されています。というかいきなり、「核の部分」(すなわち、「誰かのなかに音楽が鳴り響けば、それは誰かにとっても、その文章が音楽です」)へとつながる重要な箇所のようですが(笑) ちょっと違います。えー、スモールはですね、その著書『ミュージッキング 音楽は〈行為〉である』で、「音楽はそれ自体として存在する何かではなく、行為である。」とか、この考え方に基づいて「クラシックのコンサートでは、指揮者、楽団のみならず、興行主からチケットもぎり、清掃員にいたるまで、音楽している」みたいなですね、非常に独特なー、えー、何と言いましょうか、言わば、世界中のあらゆる音楽しているを救済するかのような———、大げさですが。しかしコレはとても重要です。と、そのような考え方を提示しています。そうであるなら! たしか、スモールも『ミュージッキング〜』で例に挙げてたような挙げてなかったような記憶が曖昧なんですけれども・・・、って、こういうところがルール違反なんですよね・・・、本を直接参照できる状況に戻り次第、ちゃんと裏とりますんで・・・、あ、ちょっと解りづらくなりましたね。もう一度。

つまり、「ミュージッキング」という概念が正しいならば、コンサート・レビューを書くということ。これも音楽的行為なのです! と、いうことで、「ワタシの思惑では・・・、書く・読むもまた、1つの音楽的「行為」です」はスモールを杜撰に参考した、と。そういうことです。

セルジュ・チェリビダッケ Sergiu Celibidache

ルーマニア出身の指揮者です。彼の著書に、『音楽の現象学』(書評)があります。

「音楽が、音と音の関係性、そして、その音と音との関係性に対する人間の関係性であるならば」

という箇所で、杜撰に援用されています。というか、この考え方を打ち出した拙論文もどき、『音楽とは何かについての試論』において、主に、割と、偏差値40の大学の卒論くらいは厳密に、検討されています。これを参考にして下さい。

なお、チェリビダッケについては、後ほど、もう一度言及します。

マルティン・ハイデッガー Martin Heidegger

ドイツの哲学者です。現しょうがくとかそんざいろんとかあとじつぞんしゅぎとかZzz...、あ、ちょっと眠くなってしまいました(笑)、一瞬。えー、そういう人です。さて、この人の考え方をどこで援用したかといいますと、まあ、ちょっと主に全体的なんですが・・・としか言いようがないのですが・・・、例えば、分かりやすいところで言えば。

渋谷陽一の書いたビートルズのレビューと、(コレは東京書籍の本ですが、)田村和紀夫の書いたビートルズ論

を比較した箇所ですかね。いちばん分かりやすく援用したところで言えば。

ハイデッガーの著書に『存在と時間』という、何ともちんぷんかんぷんな(笑) のがあるんですが。その中でですね、zuhandensein(手許存在) / vorhandensein(手前存在) という考え方が出てくるんですよ。ハイデッガーが、フッサールの現象学を援用しながらちょろちょろっと(笑) 書いているんですね。あの、ちょっと今、コレですね、何ーも見ずに書いてますんで、ちゃんとですね、参照できる環境になれば、もう一度精査します。とにかく、コノ文章の目的はさっさと書く! ということなんで。

で、えー、その辺を読んで下さい(笑) あんまハイデッガーの話とかしたくないんですよ・・・、この記事で・・・、えー、まー、ざっくり言えばですね、Dasein(現存在)は、あ、あの、Dasein というのはですね、人間に言い換えてもらってかまいません。その、Dasein が Seiendes を・・・、えー、もっとざっくりですね(笑) 言いましょう。

要するにハイデッガーっていう人はですね、例えばですね、人間が水。人間 = 水。じゃないですよ!? 人間が水飲みますよね? そのときに、いちいち、この水は H2O で〜とか、そーいう科学的な考えをしませんよね? 考える人もいますけれども、考えない人もいますよね? 喉が渇いたから飲むための水! とかって、思いますよね? で、科学的な水の見方、っていうのは、科学的にみるために見られた水なんですよ。そんで、どっちが先とか後とかなくて、むしろハイデッガーにとっては、科学的な見方の方が、人間にとっては、(乱暴な言い方をすれば)後付け。みたいな。そういう考え方です。zuhandensein と vorhandesein っていうのは。あれ? 違いますね・・・、でも、まあ、似たようなことは言ってるんですよ! 確か!

それで、じゃあ、なんでコレがビートルズ論における渋谷陽一と田村和紀夫の比較、そんで、さらに言えば、

或る音楽を聴き、或る人にとってはコードネームの連なりとして聴こえるでしょう。或る人にとっては音色として聴こえるでしょう。或る人にとっては歌詞として聴こえ、そしてまた或る人にとっては悲しい別れをした恋人との楽しい思い出として聴こえるのです。

とか、

それが楽理的な説明であろうが、詩的な感想文だろうが、「ヤヴァかった」だろうが、全て真であり、そして全て等価値です

につながるのか。上述のですね、「水」の例の「科学」を「楽理」に。「詩的な感想文」を「喉が渇いたから飲むための」に。それぞれ当てはめて下さい。そうすると、人間が音楽を聴いたときに楽理的に聴こえることも、詩的に聴こえることもある。で、どっちが先でどっちが後とかない。ってなりますよね。あれ? なりませんかね? あー、とにかくですね、こういう感じで、援用したわけです。全然整合とれませんね・・・、ハイデガーの考え方と、ワタシが援用した部分は・・・、だから杜撰なんですが・・・。ちなみハイデッガーは、等価値とかそういうことは言ってなかった。はず。真とかも言ってなかった。と思います。だから、相当杜撰に。援用したとも言えない次元で援用した、ということです。

西田幾多郎

ハイデッガーと同じような感じで援用しました。日本の哲学者です。彼の著作に『善の研究』ってのがあります。

あ、青空文庫でも読めます。そこで、純粋経験という考え方がでてきまして、この純粋経験という考え方は、アメリカの哲学者・心理学者であるウィリアム・じぇいむsZzz...、また眠くなってきましたが、あのー、コレをですね、ワタシは説明できないです。ワタシが説明した所で、は? そんなん当たり前じゃん? 何言ってんの? みたいな感じになってですね、ワタシの文章で以って初めて西田幾多郎という名前を見た人が、西田への評価を下げる危険性がありますから・・・、2回言いますが、青空文庫で読めます。読みましょう。

ちなみに、

或る音楽を聴き、或る人にとってはコードネームの連なりとして聴こえるでしょう。或る人にとっては音色として聴こえるでしょう。或る人にとっては歌詞として聴こえ、そしてまた或る人にとっては悲しい別れをした恋人との楽しい思い出として聴こえるのです。そしてそのどれもが、音楽の聴き方として「真」である。何故なら、偽の入る余地がないから。・・・(中略)・・・そこには思考の入る余地はありません。・・・(中略)・・・その「思い描き」。第一次印象。あるいは、第一次経験。こうした印象。経験。

この部分ですね。西田の概念をよく解ってないまま西田という名前を出さずに杜撰に援用しています。

和辻哲郎

和辻も、日本の哲学者です。『人間の学としての倫理学』という著書があり、この著書では、人間を「じんかん」と読み、「間柄」という考え方を提示しています。コレも、日本語で読みやすいし、割と手に入りやすいので、よく解ってないかつ今手許にその本がないワタシの解説を読むなんかよりですね、原文を読んだ方が100倍有意義です。と、いうワケにもいきませんので、ちょろっと書くと。

和辻はですね、人間を個々人としてではなく、間柄。もっとイマ風にいうと、関係性。つながり。キズナ。あ、キズナとかは言い過ぎですね(笑) そういうふうに考えます。個々人としての人というのは、後付けの考え方で、先ず、関係性、というのがあって。それから個々人としての人がある(あー、あんま「ある」とかいう言葉も使いたくないっすね・・・)。ざっっっくり言うと、そういう感じです。

ワタシはこの考え方を、不敬にも、人間と物体。の考え方にあてはめてしまいました。そして当てはめた上で・・・、そしてコレをヒントにして・・・、

誰かのなかに音楽が鳴り響けば、それは誰かにとっても、その文章が音楽です

が導き出された。ということです。コレについては、後ほど詳述します。

アンリ・ベルクソン Henri Bergson

フランスの哲学者です。あー、もう、彼については、最もやっちゃいけないことをしてるんですが・・・、あのー、

ドビュッシーの楽曲を聴いた。その時、その瞬間、正に、聴いたと思い付いたが同時的に立ち上がったその瞬間。ただしこの瞬間は、断片的ではなくつねに持続としてワタシたちの感性へと侵入する瞬間としての持続、あるいは持続としての瞬間

というところですね。音楽の聴取体験を言語化したら、こーいうカンジじゃね? みたいな。そーいう思い付きの箇所でですね、持続 durée という、ベルクソンの主要な概念を、雰囲気で使ってしまいました・・・。ホントすみません・・・。えー、『時間と自由』をお読みください。

あ、あと、ディルタイ Wilhelm Christian Ludwig Dilthey とかですかね。ちょーっと想定したのは・・・

ということでということで、「音楽について「書く」〜」は、以上の思想家の考え方・用語を、あんま精査せず、上っ面だけとって、何ーとなく書いちゃった、しかも名前を出さずに。っていう。もっともしてはならないルール違反を犯しております。この場を借りて、お詫び申し上げます。

2.「音楽について「書く」ということ」は、「〜ではない」

批評/レビューの書き方ではない

例としてですね、渋谷陽一とか田中宗一郎とか、ハイスタのライブ! とか、バンバン出してますので、何か勘違いされてる方が、まー、いないか(笑) えー、違います。「音楽について「書く」〜」に書いてある通り、ただの「所信表明」、(自分自身への)「命令」です。ハウツーみたいなカンジじゃなくて、もっと精神論的な(笑) カンジですね。批評/レビューの書き方かも? みたいなカンジでリンクをぽちったかたは残念でしたー!

批評/レビューを目指す人への応援ではない

と、いうことで、違います。あくまでワタシの内なる・パーソナルな「所信表明」です。「命令」です。文中に3回、「あなた」という言葉を使っています。後だしジャンケンみたいで申し訳ないのですが、この「あなた」とは、ワタシ自身のことです。

読んでいて励まされた、というコメントを Twitter などで見かけましたが、それはそれで大変光栄でございます。まことにありがとうございました。

「音楽について「書く」ということ」は、何なのか。

それは———、もちろんワタシ自身への「命令」ではあるんですが、それと同時に———、裏設定としては———、認めたいという、そういうキモチですかね。あやふやですが。別の言い方をすれば、評論家アンチへのアンチみたいな。あの、ただ、誤解してほしくないのは、ワタシはどちらかというと評論家アンチ側の人間ですけれども(笑)、ただ、そのアンチ/アンチじゃない、っていうのと、こういうふうに考えなければいけない、っていうのは別モノですよね。

それで、このエントリーの最後の部分にも関わってくることですが、要するに、ポピュラー音楽のレビューとかね、「意味ない」とか言われたりしますよね。ロックを聴いて、何ーか頭の中に閃いて、あー、コレ、皆に伝えなきゃ! でも俺、友達いないし、ブログだ! Twitter だ! 2ちゃんだ! みたいな。で、そーいうのをね、否定しちゃいけない。そう思うんです。まー、文章でメシ食ってきます! 俺! みたいな方はね、話は別だと思うんですけど。ただ、そういう「メシくってきます!」みたいなのをね、想定した文章じゃないですよ、「音楽について「書く」〜」は。

田舎の高校生が、SEKAI NO OWARI のレビュー書いたとしますよね、で、まあ、その文章が読み難かったりキザだったりするワケです。で、まあ、「キモい」と。そういう評価。「キモい」っていう評価をするのも自由ですけれども。それでも、それが「意味ない」ってことはない。「キモい」とか、「コノ文章じゃダメ」っていうのと、「意味ない」ってのは違う。

で、こーいう、アマチュアの連中とはまた別に、プロの評論家に対しても、厳しい意見がされますよね。ロックミュージシャンとかがですね、「評論家の言ってることは信じちゃいけないぜ」みたいなことを(笑) 言うワケですよ。「アイツの言ってることはめちゃくちゃだ。俺らのアルバムを全く理解していない」とかね、「文章を読んでも何ーも意味ないぜ、音楽は耳で聞くもんだ」とかね。 こーいう風潮、ありますよね、それで、そーいう風潮が、リスナーにも伝わるわけです。評論家みたいに小難しいこと言っても意味ないぜ、音楽は音楽だ、みたいな。そーいうリスナーがいたりしてね。で、彼らは自分でギターを弾きもしないくせに、ライブに言ってふーふー叫んで満足して「ヤヴァかった(笑)」とか言ってですね。そーいうカンジなんですけど。まあ、別に、それはそれで良い。充分音楽を楽しんでる。でも、じゃあ、そういった「音楽は耳で聞くもんだ」とか言ってるロックミュージシャンとか、ふーふー叫んでいるだけのリスナーは、評論家のやってることが意味のないこと、と決めつけて良いのか。良いワケないでしょう? 或る評論家の文章、ライブレポートを読んで、頭ん中でまたそのライブを追体験できた、みたいなさ、そーいう人はいるわけです。高校生の頃のワタシなんて、『ロッキングオンジャパン』の記事を読んで、行ったこともないライブを想像して楽しんでましたから。

コレって、意味あることでしょ? そう、意味がある。と、「認めたい」。そして、意味がある、と認めたなら、それをちょっとでも実践しよう、っていう。そういうことです。

評論家と音楽家(や、他のジャンルの芸術家)が、どっちが優れているか、とか、そーいうのはないんですよ。音楽家は音楽しかできないでしょ? 評論家はギター弾けないけど、言葉で音楽を再生するんですよ。で、どっちがエラいんですか? ないですよね? どっちもカッコいいんですよ。確かに、評論家は、音楽家がいないと評論できないけどさ、それとコレとは話が別ですよ。

3.「文体」について

コレは、Twitter でいただいたコメントへの返信になってしまいますが、まあ、その、文体についてね、「(笑)とか「」とか脱線が多くて解り難い」とか、「小難しい」(コレは文体じゃなくて内容かな・・・?)とか、あと「おっさんくさい」ですね(笑)。などなど、ちょっとコメントいただきまして。まあ、コレでも、割とどう書けば読み手がすんなり読めるんかなあ、と少しは配慮して書いてるつもりですけれども、配慮してコレか(笑)っていう。

それでまあ、その、モデル。モデルっていうのがあって、誰かは言いませんけれども、まあ、分かる人には分かりますね。或る方をモデルとしてこういう文体にしております。

それを踏まえて、自分が話しているときのように。というのを心がけて書いております。まあ、酔っぱらってですね、音楽の話をするわけですよ。で、そのときに、ワタシがするような話し方。それをですね、文字起こししたらどうなるか。っていう。そういうのを想定し、心がけてます。いや、ですます調は使いませんが(笑)、まあ、ワタシと実際に会ったことのある方には、「あー、コイツ、酔っぱらって支離滅裂なコト、よく言ってるわ(笑)」みたいなカンジで、納得いただけるかと思います。

で、何ーでそういうふうに書いてるのかと言うと、そっちのほうが筆が進む。書きやすい。好きなカンジに書き易い。っていうのがあるんですよ。だからです。あのー、ですね、よく、ライブのレポートとかで「楽しそう」とか、あるじゃないっすか。音楽に限らず、絵画とかでも、楽しく、のびのび描く。とかね。結果、できた作品がどういうのであれ、楽しく、のびのび、っていうのは、そんーなに悪く言われるわけではない。むしろ、楽しく、のびのび、と、厳しく、ガチガチに、の間で、音楽とか絵画とか、そういう芸術活動、あとはスポーツとかもそうですよね、もっと言えば、およそ人間にとって生死の関わらない活動全般。については、対立があって、常に。その間で揺れている。で、そういうのがあって、ワタシは文章についても、別に楽しくのびのび書いて何が悪いんだ、と思うわけですよ。こと当ブログに関しては。学位論文とか教科書の執筆じゃあるまいし。論文とか書くときは、そりゃあ、生みの苦しみみたいな。そういうのも必要だと思いますけれども。で、だから好きなように書いてるんですが。間違っていることは極力言わないようにしてますし。それでもたまーに間違っていたら、それは気付いた時点で修正しますし。

そもそも、まあ、これは大事なことなので、引用しますが、「音楽について「書く」〜」は、

全く文献的裏付けのないままに、思いつくままに、あ、アレですね、エッセー的な感じでですね、書きますので。気軽に読んでいただければ

ということで、文章内部の論理的整合性とか、そういうのは一切無視して書いてますので。まあ、わざとですね、論理的整合性をなくした、みたいなところはありますが。だからエッセーだっていう(笑) まあ、そういうところです。

えー、あと、まあ、ネタばらし的なところで言えば、書いてる途中で、ちょっとウラジミール・ジャンケレヴィッチ Vladimir Jankélévitch の著作『死』みたいな、展開にしようかな〜。って。形式だけね。と思いつきまして。で、あーいう構成になりましたね。ジャンケレヴィッチの著作、『死』はですね、ワタシ、読んだんですけど、かなり難解でですね、言ってることはシンプル(なはず(笑)、)なんですが、そのー、細かい議論・引用を読み解くのにけっこう骨が折れますね。あんま分かってません。で、そのー、『死』の。『死』の展開っていうのが、前半は、「死について考えるのはムダムダムダムダァ!!!!!!!」みたいなことをですね(笑) 過去の哲学者やら文学やらの引用とか具体例とかでなんやかんやと延々と書かれているわけです。邦訳で500ページくらいあるんですが、そのうち490ページくらいがですね、「ムダムダムダムダァ!!!!!!!」って感じです。で、最後の最後に、シンプルに、かなーりポジティヴなメッセージみたいな。そういうですね、感動的なフィナーレを迎えるわけです。あ、どんなメッセージかはですね、是非是非読んで下さい。コノ本、めちゃくちゃ良い本です。読み難いですが。1.で紹介したのとかよりですね、ずっとずーっと良い本ですので。で、絶っっ対に、最後を先に読まないで下さい! ホント、豊かな読書体験が台無しになってしまいますので。

あ、話が逸れましたね。で、元に戻すと、そーいう『死』みたいな展開の本を目指して書いたんですが、全く足元にも及ばず(笑)っていう。まあ、「音楽についての文章って役に立つの?」みたいな問いから、「文章書いても無駄じゃない?」みたいな、「役に立つかどうか微妙だよね」みたいなコト言っといて、最後に、「文章は音楽」(キリッ みたいな展開ですよね。こういうののお手本として、決して届かないお手本として。『死』を念頭に置きました。

小難しいってそりゃ小難しいですよ、小難しい人間が書いてるんですから(笑) あとおっさんくさいっていうのもそりゃ、お酒呑める年齢の人間が書いてるんで、おっさんくさいですよ。

4.「誰かのなかに音楽が鳴り響けば、それは誰かにとっても、その文章が音楽です」とは何か。

エッセーだったら誤解を生んでも仕方ないじゃないか、という意見もありそうですが、ちょっとですね、

誰かのなかに音楽が鳴り響けば、それは誰かにとっても、その文章が音楽です

の部分は、ヒドい誤解を生んでいる。はずですので、ちょっとここは、今後の当ブログの研究(と言えば大ゲサですが(笑)、)テーマに関わるところですので、もう一度、丁寧に。説明します。

さて。いきなり残念なお知らせですが・・・「文章が音楽」ではありせん(笑) え? みたいなカンジになりますが、厳ッ密に言うとですね、文章。コレは文章です。或る音現象と或る音現象の連なり。コレは或る音現象と或る音現象の連なりです。文章を読んで或る音現象と或る音現象の連なりを想起する際の、文章と読み手、そして読み手の内部に鳴った或る音現象の連なり。関係性。(ホントは言っちゃダメだけど、)間柄。これが音楽だと言えるのではないか。ということです。

或る文章を読みます。或る音現象の連なりが読み手の内部に流れます。その言わば全体。全体が音楽です。と、いうことは、文章を読んで音楽を思いついた、文章を書いているときに内部に音楽が流れている、楽譜を見て内部に音楽が流れている。というとき。文章や楽譜そしてその読み手なしに音楽が音楽たり得ることはあり得ません。という仮説を立てた上で、そういう意味で、「誰かのなかに音楽が鳴り響けば、それは誰かにとっても、その文章が音楽です」なのです(ここに、和辻の間柄の考え方を杜撰に援用しています。そして、チェリビダッケの考え方を、そこから離れる、という形で、援用しています。なお、チェリビダッケの考え方から離れるという点については、また機会を改めて述べることになるでしょう)。

ですので、いろいろ端折って言って、「誰かのなかに音楽が鳴り響けば、それは誰かにとっても、その文章が音楽です」なのです。文章が音楽ではありませんが、しかし、音楽が鳴り響くとき、その文章が必要とされている契機というのは、万々あるのです。そしてその文章は、楽理的でも、社会学・歴史学的レポートでも、私的なレビューでも、そこに、音楽が鳴り響く限り、どれに優劣があるっていうワケじゃあないんです。と。


まだまだ言い足りず、そしてワタシの書き手としての実力不足から、諸々の誤解がなくなったとは決して言えませんが、現時点でワタシの書けることはこのくらいでしょう。「音楽が鳴り響くとき、その文章が必要とされている契機というのは、万々あるのです。そしてその文章は、楽理的でも、社会学・歴史学的レポートでも、私的なレビューでも、そこに、音楽が鳴り響く限り、どれに優劣があるっていうワケじゃあないんです」という箇所は、ワタシの想定しているような理解を共有できるとは思っておりません。さらにまた、新たな誤解を生むことでしょう。文章とはそういうものです。文章あるいは言語は、誤解を生むために存在しているようなものです。

おそらくこの後書は、「音楽について「書く」〜」のようには読まれません。そういうものです。キェルケゴールだって、ある著作の釈明の著作を書いて、もちろん、釈明の著作の方が全ッ然読まれなかったのですから。しかし、この後書をお読みいただいた方のみが、「音楽について「書く」〜」という、偶然にもたくさんの方にお読みいただいた産物の、真に追求しようとしていたところのそれ。ワタシ自身も未だに理解しきれていない追求。このことに、少しでも近づけたことでしょう。この辺で後書きを終わりたいと思います。また別の機会に、もう少し分かりやすいかたちで、書ければと思います。んで、言い訳の言い訳ですが、コノ文章自体も別に、文章内部の論理的整合性とかは目指されてません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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