クリストファー・スモール著、野澤豊一・西島千尋訳『ミュージッキング 音楽は〈行為〉である』(2011年水声社)のノートです。本書については、以下も参考にしてください。
つまり、既にワタシは本書を読了しているわけですが。本は二度読め、ってたくさんのエラい人が言ってたので。いや、別にエラい人の言葉を聞く前に既に二度読む習慣はできてましたけれども。
ちなみに、田村和紀夫『音楽とは何か』のノートはしばらく中断します。何だか田村和紀夫批判みたいな内容になってきて、あまり面白くなくなってきたからです。書くことが。
さて、先ずは序章に当たる部分、「プレリュード 音楽と音楽すること」からまとめていきます。
音楽と名付けられている状況
スモールは先ず、「音楽と名づけられている」状況について述べます。
「これらのあまりに多種多様な状況と行為、それに音を有意味に組織させるさまざまなやり方のすべてが、音楽と名づけられている」(p. 18)
音楽とは活動である
そしてこれに関連し、「音楽とは何か」について、先ずは一定の結論を与えます。
「しかしこの問い———実際には「音楽の意味とは何か?」と「人間の生における音楽の機能とは何か?」という二つの問いなのだが———について、満足な答えが得られたためしがない。
この失敗のわけは非常に単純なところにある。———これらは間違った問いなのだ。なぜなら、この世に音楽などというモノはないのだから。
音楽とはモノではなくて人が行う何ものか、すなわち活動なのだ」(p. 19)
つまり、スモールによると、音楽とは「活動」なのです。
「音楽とは「活動」である」という主張の妥当性
しかし、音楽を「活動」とした場合、いわゆる問いにおける循環という難点が生じるのが容易に看て取れます。つまり、音楽している者が共通認識している当のそれとしての音楽とは何か、という問いが生じるのです。音楽を「活動」としてしまうと、音楽活動とそれ以外の活動を区別するためのまた新たな「音楽とは何か」を問い・定めなければならなくなるのです。
もちろんスモールは、同書の後半で、音楽活動とそれ以外の活動の区別について述べます。これについてはいずれ当ブログでも取り扱うと思いますが、少し先回りして言うと、スモールによると音楽活動とは、「儀式」なのだそうです。ただ、「儀式」という概念を、音楽活動とそれ以外の活動の区別のために導入することで、今度は、音楽活動とその他の芸術活動との区別が、曖昧になってしまうのですが。
スモールによるプラトン批判
いちおう、今回のノートの主な内容はここまでですが、補足として、スモールによるプラトン批判(!) を紹介します。
「私たちはいともたやすく、抽象概念を現実よりももっとリアルなものだと思い込んでしまうことがあるからだ。たとえば私たちは、愛憎や善悪と呼ばれるものが、「愛する – 憎む」という行為、「善いことをする – 悪いことをする」という行為ぬきにも成り立ちうると、さらには前者の抽象的な「愛」や「善悪」の方が後者よりもリアルで、それらの行為の背後に普遍的で抽象的な理念が横たわっている、と思ってしまいがちだ。この具象化の罠こそが、プラトンにまで遡ることができる、西洋的な思考を巣食ってきた誤謬なのである」(p. 19 – 20)
ただ、プラトンを持ってこられると、ちょっと私には荷が重いので、これ以上の言及は避けます・・・。
それでも一言(? と言っていつも長いんですが(笑))だけ。抽象概念がモノとしてはないというのは、これは言い過ぎです。そうは言えません。つまり正確には、抽象概念がモノとしてある、とか、ない、とかは言えない。換言すれば、確かめようがない、というふうに言わなければなりません。