音楽はただ感覚的な美を追求するためのものなのでしょうか?それとも、言葉では伝えられない何かを語る行為なのでしょうか? あるいは、音楽そのものが一種の〈言表〉(musical saying)であり、何らかの意味を発する存在なのでしょうか? オーストリアの作曲家アントン・ヴェーベルン(Anton Webern)は、音楽を哲学的な視点から捉え、その本質を深く掘り下げました。
本記事では、J. Rimas ら「Anton Webern on the ‘Saying’ of Music”」(2024)【Amazon】をもとに、ヴェーベルンの哲学的な音楽観を解説しながら、音楽が果たす役割について探求します。
音楽の「言表」とは何を意味するのか?
ヴェーベルンにとって、音楽とは単なる音の並びではなく、深い意味を持つ「言表」の行為です。この「言表」という概念は、音楽が他のどの手段でも伝えられない何かを「語る」ものであることを示しています。ヴェーベルンは次のように述べています。
「音楽は音符を通じて、人々に何かを伝えようとする。それは他のいかなる方法でも表現できないものである。」
ここでの「言表」とは、単なる技術的な音楽表現を超えたものであり、内面的な思想や感情を音楽という形で伝える行為そのものを指します。この点で、音楽は一種の「言語」として機能すると考えられます。
音楽と言語: その類似性と相違
音楽の「言語性」
ヴェーベルンは音楽を「言語」に喩えましたが、その性質は通常の言語とは異なります。言葉による言語は概念を伝えることが主な目的ですが、音楽が「言表」するのは、概念を超えた〈音楽的アイデア〉(musical idea)」です。
たとえば、ヴェーベルンはシェーンベルク(Arnold Schoenberg)が〈アイデア〉という言葉の定義を探すために辞書を調べたエピソードを引用しています。シェーンベルクは辞書で満足いく定義を見つけることができず、最終的に「〈アイデア〉とは言葉で説明できないものだ」と結論づけました。ヴェーベルンもこれに共鳴し、〈音楽的アイデア〉は言葉では完全に表現できないが、音楽によってのみ伝えられるものであると述べています。
〈理解可能性〉(Fasslichkeit)の原則
ヴェーベルンは音楽における〈理解可能性〉(Fasslichkeit)を、作曲家にとっての最高原則としました。この〈理解可能性〉とは、聴衆が音楽を把握し、受け取ることができるようにするための明確さを意味します。
「音楽的アイデアを表現するためには、明確さが不可欠である。曖昧さや無秩序は避けなければならない」
音楽の統一性: 意味と表現の関係性
ヴェーベルンの考えの核心には、〈意味〉と〈表現手段〉の〈統一性〉という概念があります。〈音楽的アイデア〉は、それを伝えるための手段(音符、リズム、メロディなど)と調和していなければなりません。ヴェーベルンは次のように述べています。
「統一性とは、意味とその表現手段との間の関係性である。」
この〈統一性〉が保たれていることで、音楽の〈言表〉は初めて聴衆に伝わります。逆に、〈統一性〉が欠けている場合、音楽は聴衆にとって曖昧なものとなり、その価値が損なわれます。
音楽の〈統一性〉が生まれる過程
ヴェーベルンは、音楽の歴史的発展がこの〈統一性〉を達成するための試みであったと主張します。彼によれば、音楽のあらゆる様式や技法は、聴衆に対して明確に「言表」するために発展してきたものであり、全ての時代の音楽がこの原則に従っているのです。
聴衆の役割: 音楽の〈言表〉を完成させる存在
ヴェーベルンは、音楽が〈言表〉するためには、受け手である聴衆が不可欠であると考えました。音楽の価値は、作曲家の意図だけではなく、それを受け取る聴衆の理解力によっても決定されます。
「音楽が言表するものは、聴衆の理解なしには存在しえない。」
この視点は、音楽を双方向的なコミュニケーションの行為として捉えています。作曲家が音楽を通じて何かを〈言表〉しようとしても、それが聴衆に受け取られ、理解されることで初めて完成するのです。
ヴェーベルンの「言表」論の現代的意義
ヴェーベルンの議論は、単なる音楽理論の枠を超え、哲学や表現論全般に広がる深い示唆を与えます。特に、現代音楽や抽象的な表現において、〈言表〉という概念は重要な意義を持ちます。
現代音楽における「言表」
現代音楽では、従来の形式や調和を超えた新しい表現方法が模索されています。この中で、ヴェーベルンの〈言表〉論は、音楽がどのようにして聴衆に意味を伝えるのかを考える上で欠かせない視点を提供します。彼の考えは、音楽が感覚的な美しさを超えて、深い思想や感情を伝える手段であることを強調しています。
まとめ: 音楽の「言表」とは何か?
ヴェーベルンの〈音楽的言表〉に関する議論は、音楽を単なる音の集合ではなく、深い意味を持つ行為として捉える新しい視点を提供します。〈言表〉という概念は、作曲家が何をどのように伝えようとするのか、そしてそれが聴衆にどのように受け取られるのかという問いを内包しています。
音楽は単なる娯楽ではなく、思想、感情、そして存在そのものを伝える手段であるというヴェーベルンの考え方は、今日においても極めて重要です。私たちが音楽を聴くとき、それが何を〈言表〉しているのかを問い直すことは、音楽そのものをより深く理解する鍵となるでしょう。