(https://twitter.com/kamba_ryosuke/status/431331222644477953 より)
昨日、今日と、佐村河内守ゴーストライター事件が注目を集めています。わたしも、それに便乗して、「音楽的にはこういう問題があるんだよ」「新垣隆って知らなかったけどスゴい音楽家だね!」みたいな記事を書きました。
が、今日、テレビで新垣の会見の一部や web 記事、あるいは、妥当性は不明ですが佐村河内に関するウワサ程度の web 記事に目を通すと、
- 新垣隆さん「著作権は放棄したい」佐村河内守さんのゴーストライター【会見全文】
- 【佐村河内さん代作会見詳報】(1)「私は、佐村河内さんの共犯者です」 – MSN産経ニュース
- 「佐村河内守氏の耳は聴こえていた」新垣隆氏が会見
- 【ネットの噂】佐村河内守さんの内部情報を流出させたネットの書き込みまとめ ゴーストライター – NAVER まとめ
- 全聾作曲家・佐村河内守の別人作曲騒動、問われる違法性、損害賠償請求の可能性も
- 「現代のベートーベン」佐村河内守氏のゴーストライターが語った! | スクープ速報 – 週刊文春WEB
(特に NAVER まとめなんて全然信用ならないんですが、)んー、正直、そうですね、音楽とか芸術とか、それ以前の、道徳とか倫理に関する問題ですね、これ。音楽に関して、特に「作曲とは何か」ていう点で興味深い出来事だったのは事実でしょうけど。でもこれ、単純に「出来事」とか「話題」て言って終わらすことのできない、「事件」ですよね? もう一回言いますけど、音楽とか芸術とかそれ以前の道徳とか倫理に関する問題だし、この事件を音楽的には〜、とか、芸術では〜、とか、エンタメビジネスでは〜、みたいなところで論じようとするのって、この事件の重要な点から目を逸らしてしまう、と思います。現代の日本なら、司法の場で解決されるべき問題で。
この際なのでちょっと書きますが、そして、あんーまこのサイトでこういうことは書きたくないんですが、わたしは、音楽へ最上の価値を付与しているわけではないし(単純に「好き」というだけです。この「好き」の理由が分からない。理由が分かって、その理由が反駁されれば、音楽への興味なんてなくしてしまわなければならない、くらいに考えてます)、芸術という考え方を好意的に捉えてもいません。
音楽や芸術というのは、編み目のように〈質〉的に連携している客体の内の1つでしかなく、決してそれ自体が自律的な存在者ではない。そしてこの「編み目のように〈質〉的に連携している客体」を超越しかつ綜合するような何かがあるとすれば、それはきっと倫理とか、そういう何かだろう、と。
こういうふうに考えています。
こういう意味で、今回の「事件」は、倫理的に、実社会としては司法的に、解決されないといけないと考えています。
このように考えれば、音大関連のツイッタラーが、新垣隆の名前が出た瞬間、楽曲そのもの評価ではなく、新垣隆擁護というストーリーを描き始めたのは、何もおかしくない、むしろ当然のことだと。推測することができるでしょう。新垣隆擁護のツイートをぱらぱらと目にし始めたとき最初は、「作品に対する評価はどこいったんだよ」等々、
あんーだけ「マシなゴーストライターつけとけwwwww」な雰囲気だった TL が、「マジ名曲。プロ魂しかない」てなってるあたり、やっぱ物語と鑑賞てのは切り離せないと笑 思わざるを得ないな— χηαgα Υμzο (@yz_xnaga) 2014, 2月 5
というツイートに象徴されるようなことを考えてしまったんですが。あくまで推測ですが、音大関係者は、報道で新垣の名前が出た瞬間、「音楽以前の問題だ」(=倫理・道徳、あるいは司法の問題だ)というのを、敏感に感じ取っていたのではないでしょうか。
前回のエントリーで書いた通り、新垣の音楽は素晴らしいし、もっと新垣のような楽曲が周知されるべきだと思ってます。
音大関係者が新垣を擁護するのは、彼らにとっての生 = 倫理が、そのまま音楽だからだと推測しています。わたしのようなその辺音楽ファンの場合、音楽と倫理を分けて考えてしまいますが、音大関係者にとってはきっと違うのでしょう。
新垣隆が、ちゃんと然るべき報酬を受け取り、自由に自作曲を書く活動の出来ることを、いまは願ってやみません。
音楽的な話題は事件の核心から目を逸らすことになる、と言いながら、それでも一言だけ。最後に。佐村河内守の「指示書」と、「図形譜」を同列に語るのはどうかと思います。
図形譜はあくまで、五線譜で表すことの出来ない音を楽曲へと構成させるために考案されたものだと思います。しかし、佐村河内守のために新垣が書いた楽曲は、わたしの耳にした範囲では、五線譜で表記しても差し支えない、むしろ演奏者のためにも五線譜で表記するべき楽曲です。これを音楽史上の図形譜と同一視することは、図形譜に対する冒涜以外の何者でもありません(音楽史上の図形譜を批難するのは大いにけっこうです)。もちろん「五線譜で表すことの出来る音の構成をあえて図形譜で表した」などといったアート(笑)があるかもしれません。しかし、そうであっても、音楽史上の「図形譜」とは別種の、何かとして論じられるべきでしょう(ちなみにわたし自身、アマチュアで自作曲を作りますが、その際、どーにもアイデアがまとまらない場合には、簡単な(自分のための)「指示書」を書く場合があります。コードとか音階とかそれ以前の、漠然とした「音の流れ」みたいなののメモ書きですね。この「メモ書き」(佐村河内の場合は、報道を見る限りは、かなり精緻な「メモ書き」をしていた)を作曲と捉えるかどうか———、やめましょう。もっと別の機会に語られるべきです)。
コメント
まず、新垣くらいかけるやつはいくらでもいる。
脚光が当たっていない名作曲家なんていくらでもいるということだ。
もちろん、その中でもずば抜けた人たちは同じく歴史に名を残すような名作曲家に評価を受けて一躍有名になることも多い。
周知されるべきとあるが、新垣よりも先に周知されるべき作曲家なんていくらでもいるってことだ。
次に、自由な発想で作られた指示書だと思うので、図形譜と同列に扱うことを「図形譜に対する冒涜」だというする発言はどういう理屈でそうなったのか詳細に説明すべきだと思います。
私は、図形譜という概念は5線譜で表記可能でない音群や線などを表記するだけでなく、様々なパラメータ、あるいは様々なパラメータの表し方を用いて「音楽を構築」する手段と表現手段を拡張したものだと考えるのであたかも佐村河内の指示書が図形譜などと比較して劣っているとの見方もできるような発言は見落とせないです(ただ西洋音楽史の延長という文脈で語られる図形譜と今回の指示書が違うということは正しいですが)
また、強弱という概念だけでも作曲においては極めて重要な要素であって、それを演奏家のために表記するものと断定してしまうところに大きな疑問を感じざるを得ません。(例えば武満徹は綿密に強弱であったりテンポを細かく設定していますが、これに従わなければ彼が狙った音楽的な面白みは大きく薄れてしまうでしょう、ラフマニノフのピアノコンチェルト2番1楽章なども同様です)