日本は古くから, 外国からの文化的影響を受けてきています. 音楽も例外ではありません.
日本と大陸との交流の最も古い記録は, 57 年, 倭奴国王が後漢の光武帝から金印を授かった, という記述 (『後漢書』) です. もちろん, 稲作や青銅器, 鉄器などの伝来時期を考えれば, それ以前から交流があったとするのが妥当です. ただ, 音楽における大陸から日本への影響は, こうした時期よりもずっと後のことです.
目次
古墳時代
3 世紀後半から 7 世紀にかけては古墳時代と称されます. この時代, アジアの国々との文化的な交流がそれまで以上に積極的に行われるようになりました. 音楽的な交流の記録が残っているのは『日本書紀』で, 5 世紀半ばに新羅の楽人が允恭天皇の葬儀に音楽を献じたこと, 6 世紀半ばに百済の楽人の交代要員が来日したことが記述されています.
伎楽
7 世紀初頭の推古天皇の時代には, アジアと日本の文化的交流がさらに広がりました. 伎楽という中国の江南地方の仮面劇が, 朝鮮年半島の百済の教師によって日本の少年へ伝えられたのはこの時代です. 伎楽の伝来は聖徳太子の推奨もあったとされています. 伎楽は, 仏教の公布手段として, 百済からの渡来人である味摩之が, 日本における普及に大きく貢献したと考えられています.
やがて遣唐使の派遣が慣例化すると, 音楽・舞踊といった芸能は, 唐の風習にしたがう傾向が強くなりました. 当時, 唐は中央アジアの芸能 (西域楽) やインドの芸能 (天竺楽) などの周辺の音楽を胡楽として積極的に取り入れていました. こういったことから, 奈良・平安時代における日本音楽は, 幅広くアジアからの影響を受けていたと言えます.
日本古来の音楽の伝承
この時期には仏教も伝来しています ( 6 世紀半ば). ただ, 仏教伝来によって日本の思想文化が一気に外来色になってしまったわけではありません. 仏教伝来後も, 皇室祖先神や古来の神々への祭りは, 従来の風習を堅持していました.
漢文が日本へ流入したのも同じくらい時期 ( 5 世紀) で, 公文書は漢文で書かれましたし, 漢詩が尊ばれました. しかし一方で, 和歌は, 老若貴賎なく広くたしなまれていました.
琴歌譜
もう少し時代を下りますが, 平安初期に成立した『琴歌譜』という楽譜があります.『琴歌譜』には, 古事記・日本書紀時代における歌の旋律と, 伴奏の和琴の奏法の手がかりが記されています.
古墳時代末期から飛鳥・奈良時代
古墳時代末期から飛鳥・奈良時代は, 音楽や舞踊において外来文化が一気に流入した時代でした.
この時代, 日本における音楽・舞踊への外来文化の流入という点で, 音楽史的に重要な出来事が 2 つありました. 701 年の大宝律令による雅楽寮の設置, 752 年の東大寺大仏開眼供養です. 雅楽寮は国家的規模で内外の楽舞を導入・継承するための制度, 東大寺大仏開眼供養は国力のほとんどを費やした一大式典でした.
雅楽寮の設置
雅楽寮 (うたまいのつかさ, ががくりょう) は, 701 年の大宝律令によって設けられた行政機関です. 国立の芸能学校としての機能を持っていました. 模範としたのは, 当時の中国の宮廷に設置された教坊という芸能教習制度でした.
組織としては, 長官にあたる頭 (あたま) 以下, 事務官が正規の雅楽と雑学をつかさどっていて, 教官が指導するという体制でした.
専攻実技の科目には, 国風歌舞にあたる歌・舞などのほか, 外来系として唐楽, 高麗楽, 百済楽, 新羅楽, 伎楽が設けられました.
- 唐楽・・・唐の俗楽. 胡楽とも. 日本文化によって意味が拡大し, 左方の総称になりました
- 高麗楽・・・唐楽に対し, 「右方」舞の意味.
- 百済楽・・・三韓楽 (新羅楽・百済楽・高句麗楽の総称. 三国楽とも言う.「三韓」とは, 1 世紀頃の馬韓, 弁韓, 辰韓のこと) の 1 つで, 舞楽. のちに高麗楽へ統合されました
- 新羅楽・・・三韓楽の 1 つで, 舞楽. 大陸からの伝来音楽として記録史上最古のもの. 9 世紀に高麗楽へ統合されました
雅楽寮設置当初の様子を記録しているのは『令義解』です. これによると, 唐楽の師は 12 名, 楽生は 60 名. この数字は, 高麗・百済・新羅の 3 国の楽の師の数 = 各 4 名, 学生の定員数 = 各 20 名と一致します. 科目の内容は何度か改訂されたと考えられていて, 例えば, 国風歌舞が 9 世紀初頭に大歌所へ移管されたり, 林邑楽や度羅楽などが加わったりしました.
- 林邑楽・・・林邑とは現ベトナム北部, チャンバ国.「天竺楽」と同一であるという説もあります. 伝来経路には, 直接伝来したという説と, 中国を経由したという説, 2 つの説があります
- 度羅楽・・・度羅がどの地域だったのかは不明で, 韓国は済州島だったなどの諸説があります.『続日本書紀』などに舞の名称が記録されていますが, 内容は音楽は不明です
平安時代以降, 現在にもみられる左方唐楽と右型高麗楽という, 外来楽舞の 2 分類が形成されました. 現在の高麗楽は, 当時の朝鮮半島の三国の楽舞をそれぞれの特徴が分からなくなるほど日本化されたものだと考えられていて, 渤海楽を加えています.
東大寺大仏開眼供養
8 世紀半の天平時代, 平城京は国際都市として隆盛しました.
天平勝宝 4 年 (752 年) は, 聖武天皇が大仏建立を発願して 9 年目の年で, この年の 4 月 9 日に, それまでにない大規模な開眼供養法要が行われました. 当時のアジアの芸能が総動員される形で, 仏教音楽・伎楽・日本の歌舞・アジア各地の楽舞が上演されたました. その内容は,『続日本紀』や『東大寺要録』などに詳細に記録されています.
五色の幕, 幡・縷・宝珠などで浄仏国土の再現されるなか, 聖武太上天皇, 光明皇太后, 孝謙天皇らが臨席, 武百官が参列, さらに僧が 1,000 人余り参入. そしてインドの僧, 菩提僊那が開眼の作法をつとめました.
開眼作法のあとは, 現在の法要でも基本曲目とされる声明が唱えられました. 唄・散華・梵音・錫状です. 東西の高座に登った講師と読師による『華厳経』の講説が始まりました. さらに 9,800 人ほどの僧が入場. というふうに, おどろくほど大規模な供養がとりおこなわれました.
こうした大規模供養に続いたのが, これまた大規模な人数による歌・舞の披露でした. 大歌と舞・久米舞・楯伏舞などの日本古来の歌舞はもちろんのこと, 女漢躍・跳子・唐古楽・唐散楽・林邑楽・高麗楽・唐中楽・唐女舞・高麗女楽などの外来の楽舞も演じられました. 各演目の出演者は数十人から数百人規模. ということは, 大仏開眼供養の参列者は 10,000 人以上だったと推測できます.
注意しなければいけないのは, こうした歌舞は, 人数こそ記録に残っているものの, その内容まではよく分かっていないという点です. 現在と名称が共通の歌舞でも, その内容が異なる可能性は充分にあります.