古典派の音楽(2)ハイドン: 生涯

西洋音楽史、古典派の2回目です。前回は、古典派とは、ハイドン Franz Joseph Haydn  、モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart 、ベートーヴェン Ludwig van Beethoven の3人、特に彼らの活躍した時代でも1780年〜1820年の間の音楽である、ということを取り上げました。今回から、この3人のなかでも特にハイドンを取り上げることにします。先ずは、ハイドン の生涯からです。

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幼少時代

ハイドンは1732年3月31日、オーストリアのドナウ河畔、ハンガリー国境に近いローラウに、車大工職人の長男に生まれました。なお、ハイドンの弟の一人、ミヒャエル・ハイドン Johann Michael Haydn も作曲家でした。

ハイドンの幼少時代については、あまり知られていません。5歳になって近郊の町ハインブルクにいる遠縁に引き取られ、音楽教育を受けた言われています。7歳には、ウィーンの聖シュテファン大聖堂の聖歌隊員になりました。

ウィーン時代

ウィーンでハイドンは、聖歌隊員として教会のミサなどに参加しました。同時に、一般の学校教育と音楽教育を受けました。しかし変声期を迎えたために、聖歌隊を辞めなければならなくなりました(1749年〜50年頃と言われています)。その後の7〜8年間は、手近な仕事で生計を立てるようになります。この間に、宮廷詩人メタスタージオ Pietro Metastasio を知り、作曲家ポリポラ Nicola Antonio Porpora の下に身を寄せることになりました。

ポリポラの下では、グルック Christoph Willibald Gluck やヴァーゲンザイル Georg Christoph Wagenseil  と出会い、C. P. E. バッハ Carl Philipp Emanuel Bach のクラヴィーア・ソナタや、フックス(主著『パルナッソスへの階梯』Gradus ad Parnassum)の対位法を学びました。



モルツィン家時代

1758年頃からハイドンは、モルツィン家の楽長になります。居城はボヘミアのルカヴィツェでしたが、冬はウィーンに住んでいました。しかしモルツィン伯爵家の楽団は、財政上の理由から解散することになってしまいました。

エステルハージ家時代

モルツィン家の楽団解散後直ぐに、1761年、ハイドンはエステルハージ家の副楽長として雇われることになり、アイゼンシュタットの居城へ行きました。

学長職はすでに、ヴェルナー Gregor Joseph Werner が務めていて、ハイドンには教会音楽以外の仕事、つまり演奏・指揮・作曲、楽員や楽譜の管理、楽団の一切の仕事が任されることになりました。この時期ハイドンは、楽団員のための協奏曲、行事用のカンタータを作曲する他、交響曲も継続的に作曲していました。

1766年には、ヴェルナーが他界し、ハイドンは楽長になりました。この頃から、教会音楽、オペラの作曲・演奏といった仕事を始めるようになりました。

1780年代になると、ハイドンの作品がウィーンのアルタリア社から出版されるようになりました。1785年頃からはモーツァルトと親交を持つようになりました。

1790年、当時のエステルハージ家の当主であったニコラウス・ヨーゼフ Eszterházy Miklós József が他界しました。後継のアントン Paul Anton Fürst von Esterházy は、教会と野外に必要な音楽家を除いて楽団を解散してしまいます。これを期にハイドンは、ウィーンへ移りました。

ロンドン時代

当時の有名な音楽興行師として、ザロモン Johann Peter Salomon が知られています。ザロモンはヴァイオリニストでもありましたが、ロンドンではオーケストラ興行で成功を収めていました。ハイドンはザロモンと契約し、2年間のシーズン中に6曲の新作交響曲とオペラ1曲を作曲・指揮することになりました。

90年12月にはウィーンを出発しロンドンへ。92年7月にウィーンに帰ってきました。

ザロモンと契約したロンドンでの演奏会は、「ザロモン演奏会」とも呼ばれています。90年から92年にかけてのザロモン演奏会は成功を収め、その後94年と95年にも、ハイドンはロンドンで演奏会を開催しました。

晩年時代

エステルハージ家の当主がニコラウス2世に代わると、ハイドンは再びエステルハージ家の楽長になりました。しかし職務は多くなかったと言われています。

96年からはオラトリオ《四季》Die Jahreszeiten を、99年からは《天地創造》Die Schöpfung を作曲し、また、そしての弦楽四重奏曲の完成を以って、ハイドンは主な作曲活動を終えました。


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