
Charli XCX の新曲「Rock Music」がやべーということでブログ記事を書いたのですが、今回の記事はその補足です。
その当該記事で書いたように、あのMVは音と映像が明らかに異なる時代を指示しています。音は2025年のもの、映像は00年代のクラブシーンの質感。その非同期が引き起こす「懐かしいのに新しい」という感覚を追いかけているうちに、2024年の『Brat』に行き着き、Indie Sleaze という概念に行き着き、そしてある思想家の名前に行き着きました。
マーク・フィッシャーです。
フィッシャーと「資本主義リアリズム」
フィッシャーはイギリスの文化批評家で、2009年に『資本主義リアリズム』という本を書きました。
その核心にある一文が、「資本主義の終わりを想像するより、世界の終わりを想像する方が簡単だ」というものです。
シニカルな冗談ではなく、診断です。資本主義が単なる経済システムを超えて、私たちの想像力そのものを植民地化してしまっているという。「別のシステムがあり得る」と想像する力そのものが、すでに奪われている。
彼はまた音楽批評家でもあって、Burial や The Caretaker のような音楽に「ハントロジー(hauntology)」という概念を重ねていました。「かつて約束されたが実現しなかった未来」への取り憑かれ。記憶の中にあるが正確には思い出せない何かを召喚する、あの感覚です。
『Brat』と Indie Sleaze の話をした流れで、フィッシャーに辿り着いたのは必然だったかもしれません。
フィッシャーがもし生きていたら
フィッシャーは2017年に亡くなっています。まだ48歳でした。
だからこそ、ふと思ってしまいます。もし彼が今も生きていたら、Spotify について何を書いていたでしょうか。あるいは、2026年現在チャートを席巻しているAI生成音楽について。
2025年のバイラルヒットは「Ai Scream」や CANDY TUNE の「倍倍Fight!」でした。そして2026年、日本国外の、日本語を話さない人が YOASOBIに憧れてAIで作った日本語ポップスがバイラルヒットを起こしています。
フィッシャーならこれを、文化の均質化として批判したでしょうか。
ただ私は、単純にそうとも言い切れないとも思っています。パンクもヒップホップも、登場した当初は前の時代から「ただ騒いでいるだけ」に見えたはずです。AI音楽が文化の衰退なのか、全く新しい何かの始まりなのか、まだ判断がつかない。
ともあれ、フィッシャーはもういません。
そしてここが少し奇妙なのですが、フィッシャーは「失われた未来」「実現されなかった可能性」への取り憑かれを論じた人でした。彼自身が、自分の理論を体現してしまったようにも見えます。「もしフィッシャーが今も書き続けていたら」という想像は、まさにハントロジー的です。彼が実現できなかった批評の未来を、私たちは追い求めている。フィッシャー自身が亡霊になってしまったわけです。
2026年、リベラルはなぜ「かっこ悪く」なったのか
そうは言っても、2026年の現実はフィッシャーにとって厳しい場所です。
戦後80年の節目に、日本では武器輸出の解禁が「現実的な選択」として語られています。先日SNSで流れてきたのは、野外イベントでパンクバンドが愛国心を歌う映像でした。反権威の象徴だったはずのパンクが、ナショナリズムと結びつく。なんとも言えない気分になりました。
この状況の中で、2026年4月末に起きたのが松尾潔氏と菊地成孔氏の論争です。
松尾氏はウェブメディアのインタビューで「戦争反対は多くの人が共有する前提のはずだ、だからこそそこで止まらずに一歩踏み出すことが重要だ」という趣旨のことを語りました。これに対して菊地氏はXに連投し、松尾氏の姿勢を「大変に下品である」と批判しました。菊地氏の主張は「反戦は自明な前提だからこそ、それを踏み絵にするな」というものでした。
後から冷静に読み返すと、実は両者の認識はほぼ一致しています。「反戦は自明だ」という点では同じで、そこから引き出す結論が違うだけです。菊地氏自身「デモは無条件で支持する」とも言っており、冷笑主義を標榜しているわけでもない。論争としてはかなりすれ違っています。
それでもこの論争がSNSで燃えた背景に、「戦争反対と言った瞬間に『お花畑』と叩かれる」2026年の空気があります。正しさへの嫌悪感が広がっているこの状況。フィッシャーなら、これを「資本主義リアリズムの内面化」と呼んだかもしれません。
もともと私は哲学科出身で、フーコーやデリダを読み、マルクスにも共感していた部分があります。本音を言えば、フィッシャーの問題意識には今も共鳴します。しかし2026年の現在、それが受け入れられるかというと、正直難しいと感じています。
小泉今日子の銀テープ
同じ時期に、少し違う景色も見えました。
小泉今日子氏の還暦記念ライブで、会場に放たれた銀テープに「Stop All Wars!!」「戦争反対!! 平和な世界希望!!」という言葉が刻まれていました。ステージでは憲法第9条の条文も朗読されました。
「公私混同だ」という批判も当然出ました。ただ松尾氏への反応と違うのは、彼女が「アイドルから大人へ」という自身のキャリア全体を賭けて、祝祭の場のど真ん中でそれをやったという点です。
資本主義のシステムに組み込まれた「スター」という存在が、そのシステムを逆利用して、システムの外側にある価値観を滑り込ませる。小さな亀裂ですが、亀裂は亀裂です。こういう場所に、微かな「救い」を感じます。
ジョセフ・ヒースという選択肢
では、フィッシャー的な言語が届かなくなった時代に、何が残るのか。
そこで思い当たるのがジョセフ・ヒースです。カナダの哲学者で、『資本主義が嫌いな人のための経済学』という本を書いています。
ヒースはもともと左派リベラルな立場の人ですが、資本主義を感情的に否定するのではなく、その論理を冷静に分析した上で向き合おうとします。彼の核心的な主張のひとつは、「反消費主義的な文化的反乱は、実際には資本主義を強化するだけだ」という逆説です。差異化の欲求がそのまま新しい商品ニーズになる、ということです。
フィッシャーとヒースをぶつけると「感情か、システムか」という図式になりがちですが、これは単純すぎます。フィッシャーは感情論者ではなく、システムが歪んでいるからこそ人々のメンタルヘルスが壊れると論じていた。ヒースはシステムの合理性を説きますが、「人間は合理的に判断できる」という前提に行動経済学的な疑問が残ります。感情もシステムによって形成されるとすれば、「感情を修正する」か「システムを変える」かという問い自体がずれてくる。
それでも今の時代、フィッシャー的な「外部」を夢見る言語が力を失いつつある中で、ヒースのように「資本主義の内側で、その論理を理解した上で動く」という態度は、一つの現実的な選択肢として浮上します。
結局、1人1人が賢くなるしかない、ということなのかもしれない。ただそれも、言うは易しで。
「ロシア的親切」という逆説
もうひとつ、ずっと引っかかっていることがあります。
軍事評論家の小泉悠氏が語っていた話です。ロシアの人たちは、困っている人がいるとどこからともなくやってきて、お金も受け取らずに手助けをする。打算のない親切が、社会の底流にある、と。
私自身にも似た経験があります。日本の小さな島で荷物を運んでくれた人にチップを渡そうとして、「やめろ」と一喝されたことがあります。善意のつもりだったチップが、相手にとってはむしろ失礼だった。あの瞬間、自分の中に「善意をお金で測る」習慣が染み付いていることに気づきました。
現代の日本では、読書会に500円の参加費がかかり、恋愛相手を探すためにマッチングアプリに課金します。コミュニケーションのすべてに価格がついています。
逆説的なのは、「みんなが幸せになるためのシステム」を本気で追求すると、その行き先が市場の論理の外側にある、贈与的な価値観になってしまうことです。みんなが幸せになるためのシステムを作ろうとすると、資本主義とは真逆のものに行き着く。
ただし、そのロシア的な価値観がウクライナ戦争を引き起こしたのも事実です。閉じた「身内」への無償の親切は、「身内ではない者」への排他性と裏表になりうる。ここでまた、答えが出なくなります。
答えは出ない
結局、答えが出ません。
フィッシャーの問いは正しいと思います。ただ2026年には届きにくい。ヒースの冷静さは必要だと思います。ただそれだけでは人間は幸せになれない気もする。贈与の論理は美しいと思います。ただそれが排他性と隣り合わせであることも忘れられない。
こういうことを考えながら、それでも Charli XCX の「Rock Music」はいい曲だと思っているわけです。
フィッシャーが亡くなって9年が経ちます。彼の問いは、今もまだ宙吊りのままです。
