
音楽を聴きながら、気づいたら別の世界にいるような感覚に陥ったことはないでしょうか。あるいは、長時間踊り続けるうちに自分と音楽の境界が溶けていくような体験をしたことはないでしょうか。こうした体験は、単なる「没入感」にとどまらず、人類が太古の昔から儀式や宗教的実践の中で意図的に引き起こしてきた「トランス状態」と本質的に同じ現象かもしれません。
2026年4月に『ニューロサイエンス・アンド・バイオビヘイビオラル・レビューズ(Neuroscience and Biobehavioral Reviews)』誌に掲載されたアサナシア・コントゥーリ(Athanasia Kontouli)らによる論文「The rhythms of trance: Cultural phenomenology and neural mechanisms of music-induced non-ordinary states of consciousness(トランスのリズム:音楽が誘発する非日常的意識状態の文化現象学と神経メカニズム)」は、まさにこの問いに正面から向き合った意欲的な総説論文です。著者らはデンマーク・アーフス大学(Aarhus University)の「脳における音楽センター(Center for Music in the Brain)」を中心に、人類学と神経科学という二つの視点を統合し、音楽が人間の意識をいかに変容させるかを包括的に論じています。
「トランス」とは何か——定義と多様な表れ方
「トランス」という言葉は、ラテン語の transire(横切る、渡る)に由来し、日常的な意識状態から非日常的な状態への移行を意味します。しかし科学的な文脈では、この言葉の定義は研究者によって大きく異なります。
コントゥーリらはこの概念的混乱を整理するために、フランスの民族学者ジルベール・ルージェ(Gilbert Rouget)が1985年の著作で示した古典的な区別を参照します。ルージェは「トランス」と「エクスタシー(ecstasy)」を覚醒レベルで区別しました。エクスタシーは感覚遮断のもとで沈黙と静止の中に達する低覚醒状態であり、一方「憑依型トランス」は他者との共同の中で、大きな音による感覚過剰刺激とともに動きを伴いながら生じる、と定義されました。
しかし著者らは、こうした二項対立的な分類よりも、トランスを「連続体(continuum)」上の動的なプロセスとして捉えることを提案しています。低覚醒の「深い音楽への没入」から、高覚醒の「シャーマニズム的憑依トランス」、さらには現代のレイブ(rave)パーティでの集団的恍惚体験まで、これらはすべてトランスという一つのスペクトラム上に位置づけられるのです。
本論文では「トランス」の上位概念として「非日常的意識状態(Non-ordinary States of Consciousness:NSCs)」という用語を採用しています。NSCsは単なる意識の変化にとどまらず、認知・身体・精神的健康に持続的な変容をもたらしうる状態を指します。瞑想、催眠、サイケデリクス(幻覚剤)などと並んで、トランスもNSCsの一形態として位置づけられています。
研究の背景——なぜ今、トランスを研究するのか
著者らによれば、近年、瞑想やサイケデリクスに関する研究が爆発的に増加し、意識科学は急速に主流となりつつあります。しかしトランスは、こうした研究の文脈でいまだ相対的に軽視されてきました。それにもかかわらず、トランスは人類史上最も普遍的なNSCsの一つであり、世界中の文化で独立して発達してきたことが知られています。
本論文の目的は二つです。第一に、多様な社会的文脈におけるトランスの現象学と効果、そしてトランスを誘発する音楽的特徴を記述すること。第二に、音楽が誘発するトランス中の神経活動と脳内ネットワーク接続性を概観し、その基礎的プロセスを明らかにすることです。
著者らが特に焦点を当てたのは、(ネオ)シャーマニズムとレイブ文化の二つです。どちらも世界的に広まっており、人類学的文献が豊富に存在するからです。文献収集は2023年9月から12月にかけて、PubMed・Scopus・Google Scholarを用いて行われました。2024年・2025年の重要論文も後から追加されています。ただし著者らは、英語文献に限定されていること、人類学研究が神経科学研究より多いこと、文化圏によって研究の深さが不均等であることを率直に認めています。
音楽とトランス——シャーマニズムから電子音楽まで
シャーマニズムにおける音楽の役割
「シャーマン(shaman)」という言葉はシベリアのエヴェンキ族の言語に由来し、「興奮した、揺れる者」を意味します。シャーマンはトランス状態に入り、精霊の世界と人間の世界を仲介する役割を担います。その実践は世界中の文化で独立して発達したとされ、人類の認知・社会的進化に貢献してきたと考えられています。
シャーマン的儀式において音楽——特に単調で反復的な太鼓のリズム(シャーマニック・ドラミング)——は中心的な役割を果たします。1960年代のアンドリュー・ネハー(Andrew Neher)らの早期の脳波(EEG)研究は、4〜7Hzの反復的なドラミングが脳波を同様の周波数帯に引き込む「聴覚駆動(auditory driving)」仮説を提唱しました。しかし後の研究でこの仮説への反論も多く、現在は単純な脳波同期よりも複雑なメカニズムが想定されています。
重要なのは、「どの音楽特徴がトランスを引き起こすか」に普遍的な答えはないということです。ルージェが指摘したように、テンポの増加(accelerando)と音量の増加(crescendo)は憑依トランスを促しやすいものの、例外も多く存在します。反復性、モノトナスなパターン、そして持続時間(13〜15分以上)が重要であることは多くの研究が示しています。
現代の「ネオシャーマニズム」では、コリーヌ・ソンブリュン(Corine Sombrun)が開発した「自己誘発認知トランス(Auto-Induced Cognitive Trance:AICT)」のように、文化的・宗教的文脈から切り離し、個人の心理的成長や治療を目的としてトランスが活用されています。AICTでは、バイノーラルトーン(binaural tones)を含む音響ループと身体の動き・発声が組み合わされてトランスが誘発されます。
レイブ文化と電子ダンス音楽(EDM)
1980年代にイギリスとアメリカのアンダーグラウンドから生まれたレイブ(rave)は、電子音楽に合わせて大人数が何時間も踊り続けるイベントです。参加者はしばしばシャーマニズム的なトランスと類似したNSCsを経験すると報告します。
注目すべきは、電子ダンス音楽(Electronic Dance Music:EDM)のテンポが4拍子で1小節あたり120〜150BPM(1拍あたり2〜2.5Hz)であり、オフビートの細かい分割音も含めると4〜5Hzとなって、シャーマニック・ドラミングの周波数帯(4〜7Hz)に近いことです。これは偶然ではなく、レイブ文化の創始者たちが意識的にトライバル(部族的)なリズムとの連続性を意識していたことが、文化的証言からも明らかです。あるレイバーが語った「テクノ音楽は部族のリズムに似ている——人々を何千年も踊らせてきた、脈打つ太鼓の音。西洋音楽はこのテーマを忘れていた……テクノが私たちをルーツに引き戻す」という言葉は示唆的です。
レイブの体験では、「非分化体験(non-differentiation)」——自己と音楽と動きの境界が溶けて一体化する感覚——が頻繁に報告されます。激しい重低音(bass frequencies)は聴覚刺激にとどまらず、前庭感覚(vestibular)と振動触覚(vibrotactile)を通じて身体全体に共鳴します。これが動き(ダンス)・光の演出・時に薬物使用と組み合わさり、強力な多感覚的没入体験を生み出します。
また研究者たちは、アフリカのシャーマニズム儀式とレイブの構造的類似性を指摘します。ボツワナのブッシュマン(Bushmen)のトランス儀式は、テクノのパルスに似た反復的なドラミング、疲労するまでの徹夜のダンス、明滅する光を組み合わせており、レイブパーティと驚くほど共通する要素を持っています。
脳科学が明かすトランスの神経メカニズム
EEG研究——脳波パターンの変化
EEGを用いた研究は、トランス中の脳波活動に一貫したパターンを見出しています。早期の研究では、シャーマニック・ドラミング中のシータ波(4〜8Hz)とアルファ波(8〜13Hz)の増加が報告されました。バリ島のシャーマニズム儀式の参加者を対象としたフィールドEEG研究(オオハシら, 2002年;カワイら, 2017年)では、トランス状態に入った参加者においてシータ波・アルファ1波(8〜10Hz)・アルファ2波(10〜13Hz)の増加が確認されており、この特徴はトランスを経験しなかった参加者と明確に異なっていました。
より最近のフエルス(Huels)ら(2021年)によるシャーマニック・ドラミング研究では、経験豊富なシャーマン実践者においてガンマ波(高周波帯)の増大と信号多様性の変化が観察されました。これは「エントロピー脳仮説(entropic brain hypothesis)」と関連づけられています——通常の覚醒状態は意識の臨界ゾーンの中間にあり、トランスはその上限方向へのシフトを示すという考え方です。一方、サイケデリクスによるNSCsは下限方向へのシフトを示すことから、薬物性と非薬物性のNSCsは現象論的には重複しながらも神経生物学的には異なる状態である可能性が示唆されています。
fMRI研究——大規模脳ネットワークの再編成
機能的磁気共鳴画像法(fMRI)による研究では、トランス中の大規模脳ネットワークの変動が明らかにされています。ホウブ(Hove)ら(2016年)が中央ヨーロッパのネオシャーマン実践者を対象とした研究では、トランス中に以下の変化が確認されました。
まず、デフォルトモードネットワーク(Default Mode Network:DMN)——自己参照的な内的思考に関与するネットワーク——の内部、特に後帯状皮質(PCC)と、目標維持に関わる前帯状皮質背側部(dACC)および左前島(left insula)との機能的結合が増大していました。これは脳の制御ネットワークが内的思考の流れを維持しながら、外部感覚からの解離(ディスカップリング)を助けていることを示しています。
さらに重要なのは、脳幹と聴覚皮質の間の機能的結合が低下していたことです。これは「聴覚駆動仮説」——リズミカルな聴覚刺激が皮質領域を駆動してトランスを誘発するという考え方——と矛盾します。実践者たちの脳は、反復的な太鼓の音に対して開かれるのではなく、むしろ「閉じて」、それを外部環境からの切り離しのツールとして利用していたのです。
南アフリカの伝統的ヒーラー(サンゴマ: Sangoma)を対象とした別のfMRI研究(Rogerson ら, 2021年)でも、トランス中にDMNの一部である眼窩前頭皮質の活動低下が確認されており、この変化は音楽の存在と最も強く関連していました。
考察: 音楽はトランスの「原因」か「足場」か
本論文の理論的に最も重要な貢献の一つは、音楽がトランスに果たす役割を精緻に再定義したことです。著者らは、音楽は「外生的な足場」として機能すると論じます。具体的には三つのメカニズムを提案しています。
第一に、リズミカルな音楽は脳が追跡可能な時間的予測構造を提供し、ビートに同期した神経カップリング(beat-locked coupling)を生み出します。しかしこれだけではトランスの完全な神経的署名(neural signature)とはなりません。
第二に、高度に規則的なリズムへの長時間暴露は「知覚デカップリング(perceptual decoupling)」——外部の聴覚刺激への反応性の低下——を促進し、内向きの体験へのシフトを可能にします。
第三に、レイブのような自然な高覚醒状況では、音楽は動き・自律神経覚醒・社会的同期・場合によっては薬物使用と協調して作用します。したがって、フィールド研究で得られる神経的署名を「純粋な音楽効果」として解釈することは困難であり、注意が必要です。
トランス研究が抱える課題も率直に指摘されています。既存研究は定義と誘発手続きが多様で、サンプルサイズが小さく、文化間比較が困難であり、実験室パラダイムが現実のトランス儀式の複雑さを捉えきれていません。標準化された誘発パラダイムと明確な操作定義の確立が急務と述べられています。
治療的応用の可能性
著者らは、トランスが身体的・心理的健康にもたらす可能性についても論じています。痛み管理、免疫応答の改善、生活の質向上、さらには創造性の増大や洞察の促進といった効果が、先行研究から示唆されています。ただし既存の臨床研究の多くはサンプルサイズが小さく、対照群や標準化された評価尺度を欠いており、科学的厳密性の向上が今後の課題です。
注目すべきは、トランスには薬物規制上のハードルがない点です。サイケデリクス研究が規制の壁に直面する一方、トランスは神経可塑性を利用しながら非薬理学的にNSCsを誘発できる、研究しやすいモデルとして位置づけられます。
今後の展望
本論文は次のような研究方向性を提案しています。
脳間同期(inter-brain synchrony)の研究——複数人が同時に音楽を演奏したり踊ったりする際の脳間ネットワーク動態を捉えるハイパースキャニング研究。集団的トランスがどのように達成されるかの理解に直結します。
個人差の考慮——被暗示性(suggestibility)や吸収傾向(absorption tendency)といった個人特性がトランスへの感受性にどう影響するかの研究。催眠研究との比較も有益です。
fNIRS(機能的近赤外線分光法)の活用——動きに比較的強いこの携帯型脳機能計測技術を用いて、実際のトランス儀式やレイブに参加している参加者の脳活動を記録する生態学的妥当性の高い研究。
音楽特徴の系統的操作——テンポ・音色・反復性・リズム複雑性などの音響特徴が吸収感・没入感・統一感にどう影響するかを精密に調べる実験研究。EDMの文脈でこうした研究を進めることが、現代におけるトランス科学の重要な課題です。
まとめ
アサナシア・コントゥーリらによる本論文は、シャーマニズムの太鼓からレイブの電子音楽まで、音楽が人間の意識を変容させる多様な様式を包括的に整理した意欲的なレビューです。人類学的・神経科学的証拠の統合を通じて、トランスが単一の「状態」ではなく、低覚醒の吸収体験から高覚醒の憑依体験まで連続するプロセスとして理解されるべきことが示されました。
神経科学的には、トランス中にDMN・顕著性ネットワーク・前頭葉実行制御領域を含む大規模脳ネットワークの再編成が生じ、シータ波やアルファ波の変化、そして経験豊富な実践者ではガンマ波や信号多様性の変化が認められます。音楽は単にトランスを「引き起こす」のではなく、時間的予測構造を提供し、知覚デカップリングを促進し、身体運動・社会的同期と協調しながらトランスへの移行を「支える足場」として機能するのです。
音楽と意識の関係は、人類の普遍的な謎の一つです。この論文は、その謎に科学のメスを入れる試みとして、今後の研究の礎との1つになるでしょう。
参考文献
Kontouli, A., Hove, M. J., Lehmann, A., Vuust, P., & Keller, P. E. (2026). The rhythms of trance: Cultural phenomenology and neural mechanisms of music-induced non-ordinary states of consciousness. Neuroscience and Biobehavioral Reviews. https://doi.org/10.1016/j.neubiorev.2026.106706
