いやー、まあ、いろいろあったような、なかったような、やっぱりあったような。
2年ぶりにフジロックへ行ってきました。
何回も行っているので、いまさら行ってもな、という気持ちもあったんですけど、Angine de Poitrineの日本初公演だけは、どうしても見たかった。
で、行ったら行ったで、実家のような安心感があるんですよね。
ああ、ここなんだな~~~、と。
それに、何より音がよかった。
グリーンステージ、あのいちばんでっかいステージですけど、あれ、こんなに音よかったっけ、というくらい、めちゃくちゃ音がよかった。
特にMogwai。
言い方は悪いんですけど、旬の過ぎたレジェンド枠くらいに思っていて、時間が空いたから見ておくか、くらいの気持ちだったんです。それが、めちゃくちゃ感動しましたね。
音の塊が、でかい空間の中でちゃんと輪郭を持って迫ってくる。単に音量が大きいということではなく、でかい音が、でかい音のまま美しく鳴っていた。
そして、目当てのAngine de Poitrine。
会場がヘブンだったこともあり、音量的には少し物足りないところがありました。最初は、あれ、もしかしていまいちかな、と思ったんですけど、最後には、やっぱりその超絶技巧に圧倒されていました。
というか、日本初公演に立ち会えたこと自体が、自分にとっては最高の瞬間だった。
サマソニのChance the Rapper以来ですかね。「これは見ておかないと」と思った海外アーティストの日本初公演。Chance the Rapperは、あのサマソニ以来、来日していませんが(笑)。
いやでもね、Angine de Poitrine、本当にカッコよかったんですよ。
微分音とか変拍子とか、いわゆる難しいことをやっているのに、ちゃんと身体に刺さる。
複雑さと、ループによるダンス性が、絶妙なバランスでロックされている。
世界各地の民謡やフォークダンス、日本の祭り囃子でもそうですけど、リズムや音律だけを取り出したら、普段聴いているJ-POPに比べて妙だったりするわけです。でも、それでも身体には気持ちがいい。
それを、ロックという、さらに「踊れる」フォーマットへ落とし込み、現代の音として鳴らしている。
なんかもう、すげえな、と思いましたね。
音楽がカッコいいと、思想まで揺さぶられる
あとは、KneecapとMassive Attack。
この2組については、もし自分が配信で見ていただけだったら、もしかしたら冷笑していたかもしれません。
けれども、音楽の力というのは恐ろしい。
自分の政治的信念とは異なる主張が乗せられていたとしても、その音楽がカッコよければ、自分の信念のほうがグラついてしまうことがある。
Kneecapが、まさにそうでした。
彼らが日本語で「戦争反対」とアジってくれたこと自体は、よかったと思います。
ただ、それとは別に、ここで具体的に再掲することは避けますが、かなりセンシティブな主張もあった。
内容を書かないのは、単に書きにくいからではありません。その主張だけを切り取って拡散することにもなるし、短い言葉で簡単に是非を決められる問題でもないからです。
少なくとも、その場で即座に歓声を上げられるほど自明な話ではなかった。
だから、日本人のリスナーが一斉に歓声を上げているのを見たとき、正直、モッシュピットの中にいながら、薄気味悪さを感じました。
ほんとに分かってんのか、こいつら、と。
もちろん、実際に一人ひとりが何を理解していたかなんて、私には分かりません。分からない以上、観客全体を無知だと決めつけることもできない。
それでも、音楽の高揚の中で発せられた政治的な言葉が、ほとんど検討される間もなく歓声へ変換されていく光景には、やっぱり怖さがあった。
前日のHi-STANDARDのMCがSNSで叩かれていた、という話もありました。
でも正直、Kneecapの主張は、Hi-STANDARDのMCがかわいく見えるくらい過激だった。燃えるとしたら、むしろKneecapのほうではないかと思ったんですけど、そのあたりは、あまり話題になっていなかった。
東浩紀がHi-STANDARDのMCに反応して、「フジロック怖い」という趣旨のことをXに投稿していました。
でも、その後のKneecapのMCのほうが、私にはよほど怖かった。少なくとも私が見た範囲では、東浩紀はそちらには反応していなかったと思います。
まあ、そんなもんなんですよね。
SNSで問題になることと、実際にその場で最も強烈だったことは、必ずしも一致しない。
自分の知らないところで、政治的な構図に組み込まれる
フジロックには、けっこう騙し討ちみたいなところがあります。
「騙し討ち」というのは言い過ぎかもしれない。
ただ、自分は音楽を楽しみに来ただけなのに、入場ゲートの近くには、ある国旗が掲げられている。切り取られ方によっては、その場所にいるだけで、その国家や政治的主張への賛同者であるかのように見られかねない。
旗の主張に賛同するか、反対するかという話だけではありません。
自分が選んでいない政治的な表象の中へ、知らないうちに自分も配置されてしまう。その居心地の悪さです。
もちろん、フジロックに来た全員が、同じ政治的立場であるはずがない。そんなことは分かっています。
でも、写真や短い動画として切り取られたとき、その違いは消えてしまう。会場にいたという事実だけが、政治的な意味を持ち始める。
アルバイト代を貯めて、純粋に音楽を楽しむつもりで来た人だっているでしょう。そんな人が会場へ来てみたら、いつの間にか国旗を含む政治的な風景の一部になっていた。
それは、やっぱりけっこうヤバいことだと思います。
Massive Attackのライブも、ある意味ではそうでした。
そのライブを見ること自体が、自分の政治的立場の表明になってしまうような感覚がある。
政治的立場というより、Massive Attackまでいくと、思想ですね。
疲れ切った身体に、いきなりパランティア
Massive Attackは、3日目のグリーンステージのトリ。いわばフジロック全体の大トリです。
こちらはもう3日目で、だいぶ疲れがたまっている。雨が降っていて、夜で、少し寒い。
そんななか、いきなり「パランティア」とか言われる。
「わ、われわれは一体、何を見せられているんだ……」
「フェスって、祝祭の空間では……」
「いや、そもそもフェスが祝祭の空間だとして、われわれは何を祝っているの……」
そんなことを考えながら見ていました。
でも最終的には、
「これが! 国内最大規模フェスの! 最終日大トリの! パフォーマンス!」
という圧巻さに、完全に圧倒されました。
音楽的には、本当に素晴らしかった。
90年代のトリップホップを、懐古趣味にするのではなく、現在の音として巨大なステージに再現していた。それを現地で聴けたという意味では、レジェンド枠として文句のつけようがない。
レジェンドでありながら、政治的主張は現在形である。
そこも含めて、申し分のないパフォーマンスでした。
ただし、その音楽が素晴らしいことと、そこに託された思想に説得力があることは、別の話です。
Massive Attackの演出に圧倒されたからといって、彼らの主張をそのまま鵜呑みにできるわけではない。むしろ音楽が強烈であればあるほど、一度立ち止まって考える必要がある。
ピーター・ティールやパランティアに、私たちの自由を奪いかねないテクノロジーと思想があることは確かです。
しかし一方で、なぜ彼らの思想が一定の支持を集めているのか。
実際の政策や事業として現れたものには、まったく賛同できないかもしれない。それでも、その背後にある思想まで読んでいけば、部分的には賛同してしまいかねない内容もある。
少なくとも、単に「自由を奪う悪のテクノロジー企業」として処理すれば、それで理解したことになる相手ではない。
そうした非常にややこしい部分を脇へ置いて、分かりやすい悪役を提示し、巨大な映像と音楽によって観客の反応を引き出す。
思想的立場が正反対だったとしても、これは使える戦術です。
だからMassive Attackのライブパフォーマンスは、素晴らしかった。でも同時に、少し「分かりやすすぎた」とも思う。
フジロックでMassive Attackが批判していた。
だからピーター・ティールやパランティアは悪い連中なんだ。
それでは、あまりにも短絡的です。
フジロックへ行ける、という豊かさ
ただ、それ以上に気になったことがあります。
フジロックへ行けるくらいの経済的な余裕がある人が、ピーター・ティールやパランティアをめぐる問題にまったくアンテナを張れておらず、Massive Attackに名指しされて初めて知ったのだとしたら、そちらのほうが問題ではないか。
Massive Attackに言われる前に、それぐらい知っておけよ、とは思いましたね。
フジロックに行ける人が全員、いわゆる富裕層だと言いたいわけではありません。
アルバイト代を貯めて来た人だっているでしょう。
でも、フジロックへ行くには、チケット代だけではなく、交通費や宿泊費、装備、休暇、そして情報が必要です。
アルバイト代を貯めて行くにしても、まず「フジロックへ行く」という選択肢が、自分の人生の中に現れていなければならない。
世の中には、その選択肢自体が現れない人がいる。
フジロックへ行かないのではない。
行くか行かないかを検討することすらない。そもそも、そのような文化的経験へ自分がアクセスできる可能性を想像しないし、想像する余力もない。
本当に貧困の中にいて、不安定な仕事や生活の疲労に時間を奪われ、その隙間へ流れ込んでくるAI生成のショート動画を消費することで一日を終える。
もちろん、そうした動画を見る人が無知だとか、政治的関心がないとか、そういう話ではありません。
問題なのは、疲労の隙間に最適化されたコンテンツばかりが届き、長い文章を読んだり、遠くへ移動したり、文化的な選択肢を比較したりする余力そのものが奪われていることです。
本当に政治が届かなければならないのは、そういう人たちではないのか。
「救われるべき」という言い方が正しいかは分かりません。でも、少なくとも政治や文化が優先的に届くべきなのは、フジロックへ行って政治的メッセージを受け取る余裕のある人たちではなく、フジロックへ行くという選択肢が、現実として立ち現れることすらない人たちのはずです。
ところが、Massive Attackの政治的メッセージを受け取ることができるのは、すでに高額な文化的体験へアクセスできている人たちです。
一方で、監視技術や労働の不安定化、戦争、情報環境の劣化によって、より深刻な影響を受ける人ほど、そのライブを見る場所にはいない。
では、この政治的メッセージは、誰に向かって語られているのか。
そして、その場にいない人たちに、何をもたらすのか。
音楽によって知ったことを、音楽の印象のまま理解しない
もちろん、Massive Attackのライブをきっかけに、ピーター・ティールやパランティアを知ること自体は悪くありません。
むしろ、それこそ政治的な音楽の効用です。
問題は、知らなかったことではない。
音楽によって知った問題を、音楽によって与えられた印象のまま、理解したことにしてしまう態度です。
音楽には、人間の身体を動かし、感情を揺さぶり、政治的信念さえグラつかせる力がある。
だからこそ、音楽に感動したことと、その主張に同意することは分けなければならない。
相変わらず日本のSNSでは、フジロックのMassive Attackのパフォーマンスを受けて、
「音楽に政治を持ち込むな」
とか、
「音楽に政治を持ち込むべきか」
とか、そういう「音楽と政治」の入口みたいなところで議論が止まっていました。
しかも、その多くは現地ではなく、配信を見た人による反応だった。
では、これを機にサイードを読んでみましょう、とか。
レヴィナスは他者や責任についてどう考えていたのか、とか。
今なら『テクノロジカル・リパブリック』を読んでみましょう、とか。
ピーター・ティールやパランティアを支持する人々は、いったい何を恐れ、何を守ろうとしているのか、とか。
そこまでは、なかなか進まない。
まあ、そんなもんなんですよね。
でも、「音楽に政治を持ち込むな」ではないんです。
政治を持ち込まれたなら、その政治について考えろ。
音楽に圧倒されたなら、圧倒されたまま同意するな。
Massive Attackが悪だと言った相手を、そのまま悪だと思うな。
『ネオ君主論』を読め。
なんですよ。
