昨日(2026 年 5 月 8 日)に公開された Charli XCX の新曲「Rock Music」MV。
いやもう最高でしたね。
まずサウンド。
めっちゃ新しい。
いわゆるハイパーポップ以降の質感――鋭いトランジェント、ガラスのように硬質な高域、デジタル的に誇張された空間設計。日本の先鋭的なハイパーポップほど極端ではないにせよ、しっかり2020年代の音でした。
ところが、映像はどこか懐かしかった。
モノクロ、フラッシュ直焚きの質感。少し白飛びした映像。距離感の近い人物。汗。暗いフロア。整理されていない高揚感。
MVを観ながら、自分が東京で20代を過ごした頃のことが不意に蘇ってきました。00 年代、20代。クラブ、ライブハウス、朝方の渋谷や代官山、六本木の空気。DJとしてフロアに立っていた夜のこと。
これは単なるノスタルジーではない、と思いました。
ノスタルジーはもっとゆっくりやってきます。あのMVが引き起こしたのは、もっと性急で、身体的な何かでした。
音は2025年、映像は2008年的。その時間差そのものが、いまの Charli XCX の面白さなのだと思います。
『brat』は単なるヒットアルバムではなかった
2024年、Charli XCX がリリースした『brat』は、単なるポップアルバムのヒットを超えた「現象」になりました。
あの蛍光グリーンのビジュアルがSNSにあふれ、”Brat Summer” という言葉が一人歩きし、ついにはアメリカ大統領選の文脈にまで入り込みました。Charli XCX が「Kamala IS brat」と投稿すると、Harris陣営が実際にそのネット文脈を選挙キャンペーンに取り込んだ。ポップアルバムが政治ミームになった、2024年らしい光景でした。
マーケティングとして見ても、あれは見事でした。Arial風の素っ気ないフォントと蛍光グリーンの組み合わせは、「ダサさを強さに変える」逆説的なビジュアル戦略でした。ミーム化しやすく、パロディしやすく、誰でも”brat化”できる「Brat Generator」まで公式が用意した。色そのものがひとつの態度表明になりました。
しかし、『Brat』の成功を「マーケティングが上手かった」で片づけてしまうと、本質を見失います。
あの作品のコアにあったのは、もっと古くて、もっと雑で、もっと汗っぽい価値観でした。
それが Indie Sleaze(インディスリーズ) です。
Indie Sleaze とは何だったのか
“Indie Sleaze” という言葉は、2000年代後半から2010年代初頭にかけて主にニューヨーク、ロンドン、ベルリン周辺で広がったカルチャーを、後から総称した言葉です。
“indie” はインディー。”sleaze” は退廃的、少し下品、少しだらしない、というニュアンスを持ちます。
直訳すれば「インディーで、少し汚れていて、夜っぽい美学」ということになります。
だが本質は単なるファッション趣味ではありません。
Indie Sleaze とは、「整っていないことそのものが格好いい」という価値観でした。
当時の音楽シーンを思い出してください。Justice、Digitalism、Boys Noize といった bloghouse 勢がいました。bloghouseとは、2005〜2010年頃にMP3ブログ経由で広まった、荒く歪んだダンスミュージックです。Spotify以前、YouTube以前。新しい音楽はブログからMP3を落として知る時代でした。だから「bloghouse」という名前そのものが、ジャンルではなく流通経路から生まれたジャンル名という、かなり特異な存在でした。
一方で、The Strokes、Yeah Yeah Yeahs、Klaxons、The Go! Team のようなバンドも、同じ空気のなかにいました。ジャンルは違います。でも DIY、ローファイ、雑多、汗っぽい、整いすぎていない、という感覚は共通していました。
ロックとクラブが交差し、ジャンルの境界が曖昧になっていたあの時代。
東京でいえば、MODULE、Yellow、SIMOON、MANIAC LOVE、WOMB あたりの空気と重なるのではないでしょうか(もっと詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。私ももう記憶があいまいなもので・・・)。インディー好きとクラブ好きの境界が曖昧で、同じフロアにギタリストとDJが混在していた時代です。
映像もまた、音楽と同じでした。コンデジ、CCDっぽい白飛び、フラッシュ直焚き、ピンぼけ、手ブレ、夜のクラブ、朝方の路上。今のInstagram的な「整った写真」とは真逆です。「ちゃんと撮れていないのに、なぜか格好いい」――その感じこそが、Indie Sleaze の本質でした。
なぜあのMVは「懐かしい」のか: 身体記憶という問題
「Rock Music」のMVを観て蘇ってきたのは、特定のエピソードではありませんでした。
夜中3時のフロアの湿度。スピーカーの低音の圧。タバコとアルコールの匂いが混ざった空気。朝方に外へ出たときの東京の光。そういったものが、映像を観た瞬間に身体のほうから先に反応しました。
これを「ノスタルジー」と呼ぶのは少し違う、と思っています。
ノスタルジーは記憶の中の出来事に向かいます。「あの頃は良かった」という時間方向の感情です。だがあのMVが引き起こしたのは、もっと即物的なものでした。記憶というより、身体に刻まれた感覚の痕跡が、映像の質感によって直接起動されるような感じでした。
哲学的な文脈でこれを説明するとすれば、ハントロジー(hauntology) という概念が参照できます。
デリダが作った造語で、”haunting”(取り憑かれること)と “ontology”(存在論)を合わせた言葉です。音楽批評の文脈ではマーク・フィッシャーが展開したこの概念は、「もはや存在しないものが、現在に幽霊のように出没する」現象を指します。
ただしフィッシャーのハントロジーが扱うのは単純なノスタルジアではありません。ノスタルジアが「過去そのもの」への郷愁だとすれば、ハントロジーが扱うのは「かつてあり得たはずの可能性、実現されなかった未来」への取り憑かれ方です。Burial の音楽が象徴的で、あれはレコードのノイズや劣化した音質を通じて、「正確には思い出せない何か」を召喚します。
「Rock Music」のMVは、厳密にはハントロジー的作品というより、意図的な再文脈化(recontextualization)に近いと思っています。
重要なのはここです。Charli XCX はゼロ年を再現しているわけではありません。
音は明確に2020年代のものです。SOPHIE や A. G. Cook を経由した、ハイパーポップ以後の音響設計。鋭いトランジェント、ガラスのように硬質な高域。ただし、純粋なハイパーポップが「足し算の美学」だとすれば、『Brat』はそこから意図的に削ぎ落とした粗さを再導入しています。ポスト・ハイパーポップと呼ぶほうが正確かもしれません。
一方で映像と身体感覚は、確実にゼロ年のクラブカルチャーに接続しています。
音は2026年、映像はゼロ年代。この非同期こそが「Rock Music」の核心です。
リバイバルではなく、祖先への回帰
フランスのファッション誌 Numéro は、Indie Sleaze を Charli XCX の『brat』によって広まった brat aesthetic の「祖先(ancestor)」と表現しています。
この言い方は興味深いと思います。
「祖先」という言葉は、単純な影響関係や継承を意味しません。いったん忘れられ、別の経路で「発見し直された」という構造を示唆しています。
「brat」は Indie Sleaze から直線的に派生したのではありません。ハイパーポップを経由し、PC Musicの実験を経由し、2020年代のクラブカルチャーを経由した上で、あの時代の身体感覚へと遡行しています。進化ではなく、意図的な遡及です。
これは「リバイバル」とも少し違います。
リバイバルは、失われたものをそのまま取り戻そうとします。だが Charli XCX がやっているのは、あの時代の美学を2020年代の技術と耳で再構築することです。原型の再現ではなく、精神の再発見に近い。
同じことは、東京の現場でも起きています。日本語圏で「Indie Sleaze」を正面から扱った論評はまだ少ないですが、2023年頃から高円寺などでIndie Sleazeをテーマにしたクラブイベントが継続的に開催されています。言葉より先に、身体が反応していたと言えます。
「整いすぎた時代」への反動として
では、なぜいまこの美学なのか。
ひとつには、コロナ後の反動があります。2020年から2年間、クラブは閉まり、人々は「何も記録せず、ただ踊っていた時代」に郷愁を抱くようになりました。
もうひとつ、より構造的な理由があります。Instagram以降のSNS文化が生み出した「整った生活の同質化」への反動です。Clean girl aesthetic と呼ばれる、健康的・ミニマル・完璧な生活イメージが主流になる中で、「もっと雑で、恥じらいがなく、不完全なもの」への渇望が高まりました。
Numéro は、2025年のリバイバルについてこう批評しています。見た目は再現されているが、当時の本物の無秩序さや自由さは薄れている、と。The Dare や The Hellp のようなアーティストは雰囲気を上手く再現しているが、「きれいすぎる」とも評されます。
この指摘は正直だと思います。当時の Indie Sleaze は、記録するために生きていませんでした。スマートフォンもInstagramもなかった時代、フロアで踊っていた人間は、ただそこにいた。その「記録されなかったこと」そのものが、あの時代の根本的な質感だったかもしれません。
だとすれば、それを2026年に「再現する」こと自体に、ある種の本質的な矛盾が含まれています。
あの頃の夜を知っている人間として
個人的な話をすれば、00 年代の東京でクラブカルチャーの中にいた人間として、「Rock Music」のMVは確かに何かを起動しました。
ただし、それは懐かしさではありませんでした。
もっと正確に言えば、「あの夜はこういうものだったはずだ」という正確な記憶ではなく、「あの頃の夜を構成していた感覚の断片」が、映像の質感を通じて不意に戻ってきた、という感じでした。
Charli XCX がそれを意図していたかどうかはわかりません。だが結果として「Rock Music」は、あの時代を身体で知っている世代に向けた、2020年代からの返信のように届きました。
フィッシャーのハントロジーを借りれば、あのMVが召喚しているのは過去そのものではなく、過去の中に埋め込まれていた、いまだ終わっていない何かです。
整っていないことの格好よさ。記録されないことの自由さ。雑多で汗っぽく、ジャンルの境界が曖昧だった夜の空気。
それが2026年のポップスターの新曲で戻ってきたとすれば――それはリバイバルではなく、亡霊の帰還と呼んだほうが正確かもしれません。
