西洋音楽史、20世紀後半の3回目です。前回はコチラ。
さて、第2次世界大戦が終結すると、若い世代を中心に新しい音楽への渇望が起こりました。
ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会
戦後の前衛音楽の中心となったのが、ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会 Internationale Ferienkurse für Neue Musik, Darmstadt です。
この講習会は第2次世界大戦終結の翌年、1946年に、ヘッセン州ダルムシュタット市で始まりました。この実現には、音楽学者シュタイネケ Wolfgang Steinecke の尽力がありました。また同時に、経済的には州・市のみならず、アメリカ軍からの援助がありました。
最初の2年間は、ヒンデミット Paul Hindemith やストラヴィンスキー И́горь Фёдорович Страви́нский 、六人組 Les Sixといった、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の音楽作品を学び直していました。
十二音技法
1948年、講習会でシェーンベルク Arnold Schönberg《ピアノ協奏曲》が紹介されました。
すると新ウィーン楽派の十二音技法に大きな注目が集まりました。翌49年にはメシアン Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen が招かれ、十二音技法 Twelve-tone music に影響を受け、《音価と強度のモ
ード》 Mode de valeurs et d’intensités を作曲しました。
この楽曲は、音を4つのパラメーター、すなわち「音高」「音価」「強度」「音色」に分けて捉え、個々のパラメーターで用いる要素を限定し、基礎となる「列」 = 「セリー」series をあらかじめ作った上で、合理的に組み立てていく、という方法で作曲されました。
※音高: 音の高さ。1秒間に繰り返される音の振動の数(周波数)によって決定し、単位は Hz(ヘルツ)。
※音価: ある音(または休止)に与えられた楽譜上の時間の長さ。例えば、楽譜に2分音符が示されているならば、その音符の音の長さ、つまり2拍分が、その音符の音価になります。
メシアンは、基礎となるセリーをモード = mode(旋法)として扱いました。そのため、のちのトータル・セリー Total serialism と呼ばれる音楽技法とは異なっているものの、メシアンのこの楽曲が若いセリエリストたちの指針になりました。
トータル・セリー
メシアンが《音価と強度のモード》を作曲したのとほぼ同じ頃、講習会メンバーの関心は、伝統的な音楽観にしばられていたシェーンベルクから、ヴェーベルン Anton von Webern へと移っていったと言われています。
ヴェーベルンの《協奏曲》の分析と、
この作品を巡る議論が盛り上がり、新しい音楽技法の開発への取り組みが活発になりました。この結果、トータル・セリー Total serialism の楽曲が誕生しました。
- ヘイヴェルツ Karel Goeyvaerts《2台のピアノのためのソナタ》: ベルギーの作曲家による1951年の作品。音価と強度と音色をセリー化した。
- シュトックハウゼン Karlheinz Stockhausen《クロイツシュピール》Kreuzspiel(1952)
ブーレーズ Pierre Boulez《ストリュクチュール Ⅰ 》Structures, Livres I(1952)
トータル・セリーとは、前述の4つのパラメーター「音高」「音価」「強度」「音色」をすべてセリー化し、そのセリーを網の目のように張り巡らせながら構成していく音楽です(シュトックハウゼンは、5つめのパラメーターとして「音の位置」を設定しました)。
数理的な操作で個々の音が定められていくため、作曲家が無意識のうちに慣れ親しんだ書法に頼って、どこかで聴いたことのある音楽を書いてしまう危険から逃れることができました。つまり、この方法で作曲した場合、すべての要素が作曲家の手でコントロールされているにも関わらず、結果として生まれるのは、作曲自身にとっても未知の部分を残した楽曲が誕生することになるのです。
このように、ヨーロッパ特有の徹底した合理主義と、新しい音楽への希求によって、トータル・セリーは1950年代半ばに支配的な作曲法になりました。
1958年、講習会にアメリカからケージ John Milton Cage Jr. とテュードア David Tudor が招かれ、既に行き詰まりをみせていたトータル・セリーは終焉を迎えます。
しかし広義のセリー主義は、アメリカのバビット Milton Babbitt や、
イギリスのファニホウ Brian Ferneyhough
といった音楽家たちに継承されることになります。
現代音楽祭
第2次世界大戦後に前衛音楽が隆盛したきっかけは、ダルムシュタットだけではありません。同じ頃、ヨーロッパ各地で現代音楽祭が開催されました。
戦前、1923年から「世界音楽祭」を開催してきた国際現代音楽協会(ISCM)、1950年のドナウエッシンゲン音楽祭、そしてメッツやストラスブールの音楽祭でも、新作が委嘱初演されていました。
パリではブーレーズがドメーヌ・ミュジカル Domaine musical というアンサンブルを結成し現代曲の演奏を推進。
ウィーンのディ・ライエやミラノのインコントリ・ムジカーリも、同じ役割を果たしました。
次回はテープ音楽, コンピュータ音楽についてです.
参考文献
- 片桐功 他『はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』
- 田村和紀夫『アナリーゼで解き明かす 新 名曲が語る音楽史 グレゴリオ聖歌からポピュラー音楽まで』
- 岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』
- 山根銀ニ『音楽の歴史』