西洋音楽史、前古典派の7回目です。今回は、ドイツのマンハイム、ドレスデン、ベルリンにおける前古典派音楽の動向を取り上げます。
目次
マンハイム
18世紀中頃、ファルツ選帝侯カール・テオドール Karl IV. Philipp Theodor が在任中のマンハイムには、ヨーロッパ各地から音楽の名手が集められたそうです。総勢50〜60人の宮廷楽団は、当時の最も優秀なオーケストラへと成長しました。
作曲家
作曲家としては
- シュターミツ Johann Wenzel Stamitz(ボヘミア出身)
- トエスキ Karl Joseph Toeschi(イタリア出身)
や、その次の世代にはなりますが、シュターミツの2人の息子である
- カール・シュターミツ Karl Stamitz(シュターミツの息子)
- アントン・シュターミツ Johann Anton Stamitz(シュターミツの息子)
- カンナビヒ Johann Christian Innocenz Bonaventura Cannabich
らがいました。
オペラ
オペラでは優れた宮廷詩人ヴェラーティを抱え、ハッセ Johann Adolph Hasse 、ヨメッリ Niccolò Jommelli などのイタリア・オペラが盛んに上演されました。J. Chr. バッハ Johann Christian Bach のオペラ《テミストクレ》Temistocle、《ルツィオ・シッラ》Lucio Silla はマンハイムのために作曲され、マンハイムで初演されました。
また、ドイツ語のオペラ、ジングシュピール Singspiel も上演されました。ジングシュピールはドイツ語による喜歌劇で、歌や合唱の他に、地で台詞が語られます。18世紀中頃からイギリスのバラッド・オペラの翻訳劇として発達し、モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart の《魔笛》Die Zauberflöte といった名作があります。
こうした音楽的な盛り上がりにも関わらず、君主テオドールがバイエルン選帝侯になり、ミュンヘンへ移住したことにより、マンハイムの音楽家たちの一部はヨーロッパ各地へ離散してしまいました。
ドレスデン
ドレスデンはザクセン選帝侯国の首都でした。この国はカトリックの国であり、音楽を含めイタリア文化が盛んとなりました。
演奏家としては、
- ピゼンデル Johann Georg Pisendel(ヴァイオリン)
- ビュファルダン Pierre-Gabriel Buffardin(フルート)
- クヴァンツ Johann Joachim Quantz(フルート)
- アーベル Carl Friedrich Abel(ガンバ)
らがいました。
また、楽長としては、
- ハッセ Johann Adolph Hasse
- ロッティ Antonio Lotti
- ゼレンカ Jan Dismas Zelenka
- ハニヒェン Johann David Heinichen
が挙げられ、ドレスデンではイタリア・オペラが注目されていました。
前述のピゼンデルは、ヴィヴァルディ Antonio Lucio Vivaldi に学び、アルビノーニ Tomaso Giovanni Albinoni、タルティーニ Giuseppe Tartini らの協奏曲を紹介し、ドレスデンに留まらずベルリンにまでイタリア・バロックを広めました
同時期にはバッハの長男であるヴィルヘルム・フリーデマン Wilhelm Friedemann Bach が、ドレスデンの町ソフィア教会のオルガニストになっています。
その後、7年戦争やプロイセンによる占領により、ドレスデンは政治的・経済的に混乱し、音楽活動が衰退してしまいます。
ベルリン
フリードリヒ2世
ベルリンを首都に持つプロイセン王国は、「フリードリヒ大王」と呼ばれた当時の国王フリードリヒ2世 Friedrich II. が王国の領土を拡大し、ヨーロッパの大国 = 列強の一員になりました。
このフリードリヒ2世は音楽愛好家でもあり、自らフルートを演奏したそうです。特に若い頃にドレスデンで観たオペラに、忘れられない程の感銘を受け、1742年にはベルリンにオペラ劇場を建設しました。この劇場にはイタリアから8人の歌手が調達され、近隣の宮廷楽団から優れた音楽家を集めた楽団を結成しました。代表的な音楽家としては、
- カール・ハインリヒ・グラウン Carl Heinrich Graun
- ヨハン・ゴットリープ・グラウン Johann Gottlieb Graun
- フランツ・ベンダ Franz Benda
- ヨハン・ゲオルク・ベンダ Johann Georg Benda
- クヴァンツ(フリードリヒ2世のフルート教師)
- C. P. E. バッハ Carl Philipp Emanuel Bach(チェンバロ奏者、大バッハの次男)
が所属していました。
上演されるのはもっぱら、ハッセ、グラウンといったイタリア風オペラでした。
演奏論
ベルリンではまた、クヴァンツやC. P. E. バッハによる演奏論が出版されました。
18世紀には「3奏法」と呼ばれる出版物があり、
- クヴァンツ『フルート奏法』
- C. P. E. バッハ『クラヴィーア奏法』(1巻、2巻)
- レオポルト・モーツァルト Johann Georg Leopold Mozart『ヴァイオリン奏法』
です。『フルート奏法』と『クラヴィーア奏法』はベルリンで、『ヴァイオリン奏法』はアウクスブルクで出版されました。これらは叙述形式が似ており、18世紀の演奏法や音楽観を知る上で重要な資料です。
また、キルンベルガー Johann Philipp Kirnberger (『純正作曲の技法』)やマールプルク Friedrich Wilhelm Marpurg (『クラヴィア奏法』)などの理論家も活動しました。
7年戦争
ベルリンもまた、ドレスデンと同じように、1757年に勃発した7年戦争の煽りを受け、劇場が閉鎖されるなど音楽活動が鎮まってしまいました。1764年には劇場が再開されますが、それまでの勢いは失われてしまいました。
参考文献
- 片桐功 他『はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』
- 田村和紀夫『アナリーゼで解き明かす 新 名曲が語る音楽史 グレゴリオ聖歌からポピュラー音楽まで』
- 岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』
- 山根銀ニ『音楽の歴史』