西洋音楽史、20世紀後半の6回目です。前回はコチラ.
さて、今回取り上げるのは、アメリカ実験音楽です。アメリカでは、第2次世界大戦前から実験音楽が盛んでしたが、終戦後にどのように展開したのでしょうか。
ケージ John Milton Cage Jr. による史上初のハプニング happening のニュースは、瞬く間にニューヨークへ伝わりました。
ハプニングの影響
ケージは1956年から、社会調査のための学校で、実験音楽の作曲法の講座を担当しました。そこでは、芸術と生活は別モノではないことや、音楽が作曲家の意志とは無関係に存在することなどを教授したと言われています。ハプニングもよく話題になり、ケージのクラスを受講していた人々の中から、60年代アメリカにおける既成の芸術概念に収まらない新たな活動の母体が生まれました。
フルクサス
60年代アメリカで、既成概念に収まらない芸術活動に取り組んでいた1人に、ヒギンズ Dick Higgins がいました。ヒギンズは、1958年から仲間たちと意味のない出来事を連ねていくパフォーマンスを繰り返し行っていました。
ヒギンズの仲間だった建設家マチューナス George Maciunas は、1961年に AG ギャラリーを開設。そこに出入りしていた新しい感性の芸術家を中心に、フルクサス Fluxus というグループを結成しました。
フルクサスの名前は、マチューナスが考案しました。もともとはラテン語で、「流れる」 fluo が変化してできた形容詞です。「流れた」とか、「崩壊した」という意味があります。
最初は、フルクサスという名前のもとに仲間たちの作品を集めたアンソロジーが作られました。後に、展示やパフォーマンスにもこの名前が掲げられるようになりました。
フルクサスの語られ方は多様です。時には運動のように、流派のように、グループのように語られました。しかし実際には、流動的な芸術行為を漠然と表したもの、1950年代〜60年代にかけてのラディカルの風潮から生まれた、ひとつの感覚のようなものだったと言われています。
彼らは特定のメディア、例えば音楽なら音楽、美術なら美術といった個々のメディアの独自性を尊重する伝統の束縛を逃れようと試みました。演劇でもあり音楽でもあり美術でもあるようなハプニングや、概念そのものを模索する「コンセプチュアル・アート」などが、こういった潮流の下に誕生しました。
例えば、ダダ Dada のような、芸術が持っている攻撃的なアイロニーも、フルクサスの本質の1つでした。
表現の生活化を目指したフルクサス運動は、マチューナス没後、急速に衰頽していきました。
次回はアレトリー, クラスターについて取り上げます.
参考文献
- 片桐功 他『はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』
- 田村和紀夫『アナリーゼで解き明かす 新 名曲が語る音楽史 グレゴリオ聖歌からポピュラー音楽まで』
- 岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』
- 山根銀ニ『音楽の歴史』