古代ギリシア音楽(3)ギリシア悲劇

西洋音楽史の出発点、古代ギリシアについての3回目です。1回目、2回目はコチラ。

なお、当ブログの西洋音楽史関連のエントリーは、以下も参考にして下さい。

前5世紀になると、アテネが文芸の中心地になりました。アテネでは、悲劇・喜劇が発達しました。悲劇・喜劇は、音楽と舞踊が一体となった言わば「総合芸術」でした。

こうした劇は、コンクール形式で競演され、特に悲劇が最初に競演されたのは前534年、独裁者ペイシストラトスが始めたディオニュシア祭だと言われています。この競演での優勝者として、テピスが現在に伝えられています。

また、悲劇三大詩人として、

  • アイスキュロス Αισχύλος
  • ソフォクレス Σοφοκλῆς
  • エウリピデス Ευριπίδης

が挙げられます。

このうち、まとまった形で残っているのは、アイスキュロスの「オレステイア」Ὀρέστειαのみです。

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1.ギリシア悲劇と詩

ギリシア悲劇は、詩の形態を保っていました。合唱隊の流れをくんだためです。前5世紀、ギリシア悲劇の最盛期には、会話部分は日常会話のリズムに近い韻律(詩に用いらるリズムに基づいた文の形式である韻文における音の調子、音の時間的リズム、強弱、肯定、あるいは長短など)を基本としていました。

2.ギリシア悲劇の形式

ギリシア悲劇の最も発達した形式は、次のようなものでした。

  • プロロゴス(序章。舞台の状況を説明する)
  • パロドス(プロロゴスに続いてコロスと呼ばれる合唱隊が歌う「入場の歌」)
  • エペイソディオンとスタシモン(パロドスに続いて、会話の部分 = エペイディオンと、合唱隊の歌・舞踊 = スタシモンが交互にくりかえされる)
  • エクソドス(最後の場面、終章)

3.俳優

俳優の人数は、3人と決まっていました(初期は1人、後に2人、最終的に3人で固定された)。つまり、1人が何役もこなしたり、あるいは、同じ役柄を3人でローテーションしたりしていました。しかし、ギリシア悲劇は仮面劇であり、また、衣装はゆったりとしていて体型が分かり難かったため、3人でも劇として成立していたそうです。

4.合唱隊

合唱隊の人数は12人〜15人で、群衆役として歌ったり躍ったりしていました。合唱隊が歌った旋律や、舞踊の振り付けについてはほとんど分かっていません。ただ、伴奏はたいていアウロスで行われていたようです。

5.前4世紀以降のギリシア悲劇

悲劇が最も発達したのは、前5世紀だと言われています。前4世紀以降は、合唱隊が軽視され、俳優の役割が大きくなっていきました。つまり、ギリシア悲劇から音楽性が失われていくことになったのです。

次回は「古代ギリシア(4)ギリシアの音楽理論家———ピュタゴラス」です。

【参考文献】

  • 片桐功 他『はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』
  • 田村和紀夫『アナリーゼで解き明かす 新 名曲が語る音楽史 グレゴリオ聖歌からポピュラー音楽まで』
  • 岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』
  • 山根銀ニ『音楽の歴史』

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