前古典派の音楽(8)ザルツブルク, ウィーン

西洋音楽史、前古典派の8回目です。今回で前古典派の音楽を取り上げるのは最後になります。次回から、古典派の音楽を取り上げる予定です。今回は、当時のオーストリア、ザルツブルクとウィーンの音楽がテーマです。

目次

【スポンサーリンク】
スポンサーリンク

ザルツブルク

ザルツブルクは当時、大司教が統治していました。宮廷楽団と、大聖堂などの教会があり、同時期の宮廷楽長にはエーベルリーン Johann Ernst Eberlin、宮廷オルガニストにはエーベルリーンの弟子であったアードゥルガッサー Anton Cajetan Adlgasser がいました。

なお、モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart の父であるレオポルト・モーツァルトJohann Georg Leopold Mozart も、1743年から宮廷楽団でヴァイオリンを弾き、やがて宮廷作曲家、副楽士長になりました。

1762年、楽士長としてヨーゼフ・ハイドンの弟であるミヒャエル Johann Michael Haydn が迎えられました。1781年、モーツァルトがウィーンへに行ってしまったことに伴い、後任として大聖堂オルガニストを継ぎました。しかし1806年、宮廷楽団は解散し、すぐれた音楽家たちはウィーンの宮廷楽団へ移りました。

ウィーン

ウィーンはハプスブルク帝国の首都でした。ハプスブルク帝国の歴代の皇帝は、音楽愛好家として知られています。このため、ウィーンの宮廷楽団は18世紀初頭、メンバー数が107人にもなりました。この時期に皇帝に在位していたのは、カール6世 Karl VI. でした。カール6世は、宮廷楽長のフックス Johann Joseph Fux(主著『パルナッソスへの階梯』Gradus ad Parnassum)に対位法を学んだそうです。



そして宮廷副楽長であったカルダーラ Antonio Caldara のオペラを指揮しました。

1730年には、イタリアの詩人・台本作家であったメタスタージオ Pietro Metastasio がウィーンに呼ばれました。

女帝マリア・テレジア Maria Theresia Walburga Amalia Christina von Österreich の時代(1740年 – 1780年在位)には、政治的に様々な改革が行われましたが、イタリア・オペラが重視されることには変わらず、ハッセ Johann Adolph Hasse 、グルック Christoph Willibald Gluck のオペラが人気を集めたそうです。

マリア・テレジアの長男であった次の皇帝、ヨーゼフ2世 Joseph II が国民劇を奨励したことで、ジングシュピール Singspiel  が隆盛しました。ジングシュピールの作家としては、ウムラウフ Ignaz Umlauf 、ディッタースドルフ Karl Ditters Baron von Dittersdorf 、モーツァルトらが挙げられます。

同時期にウィーンで活躍した音楽家としては、ヴァーゲンザイル Georg Christoph Wagenseil(1739年から宮廷作曲家)、ガスマン Florian Leopold Gassmann(1772年から宮廷楽長。ボヘミア出身、イタリアで活躍)、サリエリ Antonio Salieri(ガスマンがイタリアから連れてきた。74年に宮廷作曲家、88年からは宮廷楽長)らがいました。彼らはウィーン音楽界を支配していました。

宮廷とは関係のない音楽家としては、カール教会オルガニストのモン Matthias Georg Monn が交響曲の成立に貢献しました。

この時代のウィーンの音楽は、イタリアから大きな影響を受けつつ、対位法を重視するウィーンの伝統と融合したそれでした。



【スポンサーリンク】
スポンサーリンク