古典派の音楽(5)モーツァルト: 生涯

西洋音楽史、古典派の5回目です。古典派とは、ハイドン Franz Joseph Haydn 、モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart  、ベートーヴェン Ludwig van Beethoven の3人を指し、より厳密には彼らの活躍した時期でも1780年〜1820年を指します。前回のエントリーまででは、この3人のうちハイドンを取り上げました。今回から、モーツァルトについて取り上げます。先ずは彼の生涯からです。

【スポンサーリンク】
スポンサーリンク

1.生い立ち

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart は、1756年1月27日、ザルツブルクに生まれました。彼の父(レオポルト・モーツァルト Johann Georg Leopold Mozart )は、モーツァルトの優れた音楽的才能を認め、息子を大成させることを自らの使命としました。

モーツァルトの生涯は、2つの時期に分けられます。前半は1762年〜81年(6歳〜25歳)までで、父、母などの家族といっしょにヨーロッパの各都市を旅していた時期です。後半は1781年〜没年である91年(25歳〜35歳)まで、ザルツブルクの宮廷音楽家の職を辞め、ウィーンで「自由音楽家」として活動した時期です。

2.ザルツブルク時代

ザルツブルク時代の旅行の目的は、当初は「神童」モーツァルトを披露するための演奏会の開催でした。1762年には、ミュンヘン、ウィーンへ、また、1763年〜66年まではパリ、ロンドンへ旅行しました。

この1763年からの3年間の旅行は、後に「西方の大旅行」と呼ばれ、ドイツではヨメッリ Niccolò Jommelli やマンハイム楽派に、パリではショーベルト Johann Schobert やエッカルト Johann Gottfried Eckard に、ロンドンでは J. Chr. バッハ Johann Christian Bach とアーベル Carl Friedrich Abel に会い、大きな影響を受けました。この間に作曲も行い、パリではヴァイオリン伴奏付クラヴィーア・ソナタ、また、ロンドンやオランダでは交響曲を作曲しました。

モーツァルトが成長すると、旅行の目的は「就職探し」へと代わりました。1777年には、マンハイム、パリへ旅行しています。

こうした旅行は、父によって綿密にルートが計画されていました。モーツァルトの父は、当時(前古典派時代)に重要な音楽都市すべてを巡れるように計画したのです。モーツァルトは、旅行先で、当地で活躍する音楽家たちから多くのことを吸収しました。

3.「自由音楽家」時代

1781年からのモーツァルトのウィーンでの「自由音楽家」としての生活は、ピアノを教え、自作品を披露する演奏会を開催し、さらに出版もしました。

1784年にはハイドンと知り合い、多大な影響を受けました。また、ハプスブルク帝国の外交官で、音楽愛好家のスヴィーテン男爵との交友も重要でした。

ベルリン駐在中には、バッハやヘンデルの楽譜を収集し、この2人の音楽だけを演奏する私的演奏会を、毎週日曜日に開きました。この演奏会でモーツァルトは、ドイツのバロック音楽に触れました。

また、1784年12月には秘密結社フリーメーソン Freemason のウィーン・ロッジ に入会しました。フリーメーソンは、18世紀初頭イギリスで創設された「自由、平等、博愛」を掲げる団体で、位階制度を有し、多くの知識人が入会していました。モーツァルトはこの団体のためにも作曲し、特に《魔笛》Die Zauberflöte は、フリーメーソン劇だと言われています。

4.晩年

1787年、モーツァルトは《フィガロの結婚》Die Hochzeit des Figaro 《ドン・ジョバンニ》Don Giovanni を成功させました。

さらに、グルック Christoph Willibald (von) Gluck が他界したことで宮廷作曲家の称号を得ることができました。

しかし同じ時期から、モーツァルト家の収入が激減することとになります。

1789年には北ドイツ旅行を試み、90年には新皇帝レオポルト2世の戴冠式へ自費で参加したにも関わらず、大きな成果を得ることがなかったそうです。また、ハイドンと同じようにロンドン旅行の誘いもありましたが、実現せず、ロンドンに見送るハイドンを見送ることになってしまいました。

1791年の3月、モーツァルトは最後となってしまった公開演奏会で、ピアノ協奏曲変ロ長調を披露、

そしてこの後、

  • 《魔笛》Die Zauberflöte(アウフ・デア・ヴィーデン劇場の興行主シカネーダーからの依頼)
  • 《ティトゥス帝の慈悲》La Clemenza di Tito(プラハでのボヘミア王戴冠式祝賀用オペラ・セリア)
  • 《レクイエム》Requiem (シュトゥパハ伯爵からの依頼)

といった作曲を行いましたが、《レクイエム》が完成しないまま、12月5日に病死しました。


【スポンサーリンク】
スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする


【スポンサーリンク】
スポンサーリンク