ヨルシカ『盗作』特典小説における過激な音楽観

low angle view of lighting equipment on shelf

フィクションの登場人物の持つ考えなので、いちいちイチャモンをつけるのもどうかな、と思うところもありますけど、ヨルシカのアルバム『盗作』の特典の小説を読む機会があったんですね。それで、主人公 (?) の男性の持つ音楽観がちょっと気になりまして。過激、と言うと大袈裟ですが、言い過ぎかな、それ、という点があって。それで、ケチをつけるのは無粋だとは理解してるんですが、あの特典小説を読んだ例えば中学生とか高校生とかが、ちょっと歪んだ・残念な音楽観を形成してしまうと、それはそれですごくかわいそうだな、というのがありまして。そういった中学生・高校生が、あの特典小説を読む前でも読んだ後でもいいんですけど、そういったちょっと歪んだ音楽観を形成するのを防ぐ役割のあるような文章を、いちおう、書いておいた方がもしかしていいのではないか、と思いまして。上手く書けるかどうかは分かりませんが。

いや、たぶんね、わざと脇の甘い文章を書いていると思うんですよ、ヨルシカの作家さんは。でも、音楽が好きな中学生・高校生あたりが、あの小説を読んで間にうけると、ちょっとかわいそうじゃないですか。間に受けちゃった中学生・高校生が、本記事に何らか・偶然出会って、もっと音楽は自由で面白いし、音楽批評もそう単純なものでもないんだよ、というのに気付いてくれたらね、うれしいですね。

それで、本題ですけど、論点はいくつかあって、

  1. 盗作
  2. 音律
  3. 作品の評価と、音楽家の人生

この 3 点ぐらいですかね。特典小説の登場人物の主人公の男性の語るこの3つの音楽観が、やっぱりちょっと気になって、小説のどこかで否定されるのを期待していたんですが、どうも否定されてはおらず、私の読みこぼしかもしれませんが。ということで、(1) 盗作、(2) 音律、(3) 作品の評価と音楽家の人生という 3 点について、ちょっと小説の内容がちょっと、そこは言い過ぎなのではないのか、というのを書いてみたいと思います。

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1. 盗作について

特典小説を読む前に、アルバムを聴いたんですけど、1曲目にベートーヴェンの「月光」のメロディーが引用されていたり、あるいは、グリーク「朝」のメロディーが引用されている曲があったりして、「作家が影響を受けた音楽を集めた、これまでのキャリアの集大成みたいなアルバムなのかな」とまず思いましたね。なんて思いながらも。小説を読んでみると、主人公の音楽家の男性は音楽を盗む音楽泥棒で、現在流行している音楽はすべて過去に存在していた音楽の盗作である、的な、けっこう過激なことが書かれていまして。

この場合、盗作というのが、もしかしてポジティブな意味で使われているかもしれませんので、目くじらを立てるような事はないかもしれませんが。でもちょっと雑というか、盗作と似たような概念は、結構ありますので、芸術制作において。その辺を整理しないまま使ってしまうと、真に受けて読んでしまった人がちょっとかわいそうというか。例えば引用とか、コラージュとか、オマージュとか、あるいは模倣とか。盗作をするにしろ自覚的なのか無自覚的なのかとか。確かに、引用とかオマージュといった語句は、特典小説内には出てきますが。結構その辺の線引きって曖昧で難しいんですよね。議論が。美学的な議論と言うことになると思うんですけど、本記事ではちょっと踏み込みませんが、これ以上は。ヨルシカの作家さんはミュージシャンですので、こういった、盗作とか引用とかオマージュとかあるいは模倣とかといった用語の線引きの議論をしっかりする必要は別にないんですけど、特典小説もエンターテイメントですしね。それにしてもちょっと雑ではないのかなと思いますね、盗作という言葉だけで片付けてしまうのは。

2. 音律について

それで、現在の音楽が基本的に盗作だ、と言う特典小説の主人公の男性の言葉の根拠になっているのが、次のようなメロディーに対する考え方でして。引用すると、

「今この瞬間も、世界中の人間が音楽をしているのだ。たった十二音階のメロディーが数オクターブの中でパターン化され、今この瞬間にもメロディーとして生み出され続けている。ならばあの名曲も、ラジオに掛かる流行歌も、この洒落たジャズポップすらも、音楽の歴史のどこかで一度は流れたメロディーに違いない」

(ヨルシカ『盗作』特典小説より)

「俺たちが生み出した気になっていたメロディーは、この世のどこかで既に流れている。平均律が生まれてから数百年が経ってるんだぜ。今の時代に、オリジナルの、心を打つ美しいメロディーパターンが本当にあるのか?」

(前掲)

そうですね、特典小説のどこかで、こういった考え方が否定されるのでは、と期待しながら読んでいたのですが。 否定された箇所を見つけることができませんでした。

ミュージック・コンクレートのようなクラシック音楽におけるサンプリング音楽を例に出さないまでも、平均律から外れた音楽というのもありますよね。いわゆる微分音ですが、確かに、この微分音も、24平均律だったりする場合は、平均律の 1 つではありますが。小説の登場人物の男性は「十二音階のメロディー」と言っているので、12 平均律のことなんでしょう。

微分音て、20 世紀以降の一部のクラシック音楽、要するに現代音楽においてようやく積極的に取り入れられるようなったというか、つまり、ちょっと小難しい・一般的でない音楽で使われるというイメージが、もしかしてあるかもしれませんが、全然、そうではないですよね。ポピュラー音楽でもたとえば、Aphex Twin は「Selected Ambient Works Volume II」以降、微分音を使った音楽を作っていますね。

確かに、Aphex Twin は、日本でもフジロックなど大規模な音楽イベントに出演しているとはいえ、ちょっと小難しい音楽かもしれません。でも、たとえば Radiohead だって使ってますよ (「How to Disappear Completely」(『Kid A』)) 。

最近だって、2016 年の作品、King Gizzard & the Lizard Wizard『Flying Microtonal Banana』で微分音が使われていますよね。このアルバムはオーストラリア・チャートで最高位 2 位ですよ。

あとやっぱり、ブルースですよね。

洋楽のポピュラー音楽ばかりかというとそうでもなくて、日本でも、中島美嘉がクォーターフラットと言って、半音の半音ズレて歌うのが有名ですよね。

中島美嘉の場合は、無自覚的にクォーターフラットなのかもしれませんが、aiko は完全に狙ってますよね。

こいうふうに、平均律から外れた音楽って、ポピュラー音楽でも結構ありますよね。そこも含めて盗作なのでしょうか。特典小説の主人公の男性にとっては。そこまで言い切るとカッコいいですね。

そもそも西洋音楽に起源をもつポピュラー音楽以外の、世界の民族音楽 (あんまり私はこの言い方が好きではありませんが) に目を向ければ、12平均律以外の音律はたくさんありますよね。民族音楽はポピュラーではないから外した方が良いのでしょうか。音楽の楽しみが半分以下になってしまう気がしますが。

3. 作品の評価と、音楽家の人生

音律についてがけっこう長くなってしまったので、ここはさらっといきたいと思います。

たとえば、特典小説の主人公の男性は、次のように述べています。

「作品と本人が同一視している。そこに作者の罪を持ち込む。こんなことをした人間だから、という理由で評価を曲げて見てしまう。
/ 真実の尺度に気づいていない。目が開いていないのさ。」

(前掲)

「例えば、そうだな、ビートルズがまったくの無名だったとして、その音源の価値は変わるだろうか。評論家はよく彼らの歩いてきた奇跡とセットで音楽を語るが、俺から言わせれば間違っている。事前情報もなく、ただ銀杏しただけで、紛れもなく美しいメロディーは確かにこの世に存在する。芸術作品において、作者なんていうのは付属品でしかないだろう」

(前掲)

「俺がどういう経緯でその音楽を作ったとしても、レコードに刻まれる溝のパターンが同じだろう?」

(前掲)

「俺がその曲を作る前に人を殺していようが、作った後に強盗をしていようが、そもそも他人からメロディーを解釈していようが、音楽としての仕組みは、録音された音の並びは、五線譜の中のメロディーの機微は、何も変わらないはずなんだ」

(前掲)

これもケース・バイ・ケースというか、殺人・強盗は極端な例なので、ちょっと一回それは脇に置いておきますけど、音楽家の人生を知っても、音楽作品の形は変わらない的なことを言いたいのかもしれませんけど、ちょっとこの辺にも作家の混乱がやや見られますが、端的に結論から言うと、音楽家の人生を知ると、音楽作品自体が変わってしまうことってありますよね。

確かに、ある音楽作品を美しいと感じて、後から、その音楽家の人生を知って、時間的に後になってその音楽作品の評価が鑑賞者にとって変わったとしても、音楽家の人生を知る前にその瞬間に生じた音楽作品を美しいと感じたその感覚というのは、確かに事実だった言えとます。

​ある瞬間に生じた音楽作品に対する感覚と言うのは、その瞬間は確かに事実ですが、それとは全然別の話で、音楽家の人生を知ると音楽作品が変わる事はありますよね。

音楽家の人生を知っても知らなくても音楽作品は変わらないというなら、なぜ、楽譜に複数の版が存在するのでしょうか。なぜ、ポピュラー音楽の名アルバムがリマスタリングされるのでしょうか。音楽家の人生を研究した結果、楽譜の版が複数存在することになるとは言えないでしょうか? 音楽家が殺人をした事実を知ったからといって音楽作品が変わるとは言えないかもしれませんが、音楽家の字が汚なかったことを知っていると、音楽作品は変わってくる可能性がありますよね。それに、何回も何回も音楽家自身が一生涯の中で 1 つの作品を改訂し続けたりするケースもありますよね。改訂する度に、コピー機がなかった時代は楽譜の写し間違いが生じたりして。そうなると現存する楽譜のうちどの楽譜が本当に作家の意図を反映していて、かつ美しい音楽作品なのか、これを追求するには相当、音楽家の人生を詳しく研究しないと、やっぱり難しいのではないでしょうか。

例えば、ロックの名盤のリマスタリングなんかも、その音楽家の使っていた機材であるとか、スタジオであるとか、その音楽家の人生を詳しく研究した結果、生み出されるものですよね (たぶん)。

​確かに、音楽家が殺人を犯していたからといって、強盗していたからといって、そういったことが後知恵で分かったとしても、そういった音楽家の人生を知る前に感じた音楽作品の美しさというのは変わりません。ただ、音楽家の人生を知ると、音楽作品が変わってしまうことはある、と言っていいと思います。

この辺りの点について参考になりそうな web サイトを紹介しておきますね。

ヨルシカの作家さんが、こういったことを知らないはずないと思いますので、意図的に、小説の登場人物に「言い過ぎ」な発言をさせたかもしれないですね。

こういった議論が起こる時点で、あの特典小説はエンタメ作品としては正解なんですけどね、改めて調べてみて、いろいろ気付くこともあったので。音楽って、本当に豊かで面白くてどんどん新しいものが生まれているんだ、逆に、古い音楽でもまだまだ現代的な価値があるんだということに改めて気付かされました。良い機会でした。

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