音楽は何を表現するのか、修辞学

音楽における表現について、田村和紀夫『音楽とは何か ミューズの扉を開く七つの鍵』「第三章 音楽は表現である」を読みながら、あれこれ思い巡らしているところです。こちらも参考にしてください。

『音楽とは何か~』によると、「歌詞が音楽を説明する」のであり、「音楽の描写力はやはり不確定なのであり、「それが何であるか」を示すには、言葉を必要とする」のだそうです。

しかしここで、歌詞のない音楽でも、悲しいとか、嬉しい、とか、暗い、明るいといったものが表現されるのではないか、という疑問が起こります。これに対しては、「修辞学」に関連して ヘンリー・パーセル Henry Purcell のオペラ『ディドーとエネアス』からディドーの第2アリア〈わたしが土の中に横たわる時〉を分析しながら、次のように述べています。

「修辞学的なさまざまな手法も、一種のプログラム的な要素として機能するといえるでしょう。「悲しみの低音」はそれが使われているというそのこと自体が、音楽を描写する感情世界への指針となるということです」(田村和紀夫(2012) 『音楽とは何か ミューズの扉を開く七つの鍵』講談社 p. 77)

「減音程が「苦しみ」を表すというよりは、減音程を聴きとることによって、そこに「苦しみ」が描写されていることを知るのです」(同書 同ページ)

「そのためには減音程 = 「苦しみ」という知識、あるいは一種のコード〔引用者注 コード CODE〕が必要となります」(同書 p. 77 – 78)

修辞学については、別の機会にまとめてみたいですが、とりあえず今は置いといて(置いておくことで誤読になる可能性は充分あるんですが(笑))、つまり、聴き手はあらかじめ「悲しみの低音」が「悲しみ」を表す、「減音程」が「苦しみ」を表すということを 知 っ て い な い と「悲しみ」や「苦しみ」を音楽作品から 感 じ る ことはない、ということでしょうか。ポピュラー音楽における、いわゆるメジャー = 明るい、マイナー = 暗い、というのも、そ れ を 知 っ て い て 初 め て そ れ と 感 じ る ということでしょうか。この辺りは、実際に人体実験でもしてみないと(笑)、分からないような気がしないでもないですが(笑)。というのも、まぁ、1人に回収されることは絶対にないでしょうが、 い ち ば ん 初 め に 「 悲 し み の 低 音 」 や 「 減 音 程 」 が 「 苦 し み 」 と 決 め た 者 が 、 な ぜ そ れ と 決 め た の か 、という問いが残る気がするからです。それとも、こういった問いは答えようがない無意味な問いなのでしょうか。これについては、まだまだ調べる必要がありそうです。

ああ、そうか、本当は、楽譜のリンクとかあったほうが良いんですよね。ちょっと探してあったら、また追記します。

ちょっと話題がそれそうなので、『音楽とは何か~』に戻ります。続いては、かなり納得できる部分です

「ただし〔中略〕、指示されるのは類型的な感情にとどまります。「苦しみ」を示すだけで、「どんな苦しみか」は説明しようがないのです」(同書 p. 78)

確かに(笑) 例えばポピュラー音楽でマイナーコード(= chord)が鳴らされたとして、あー。暗いわー、とか、悲しいわー、とかは分かるんですが、「何で暗いの? 何があったの? 女にフラれたの?」まで分かった経験は今までないですよね。分かる人いたら、連絡下さい(笑)。


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