教会音楽と世俗音楽の共通点

金澤正剛『新版 古楽のすすめ』の、「第十一章 忘れ去られた音楽について」についてのノートです。第十一章に関しては、以下も参考にしてください。
「古楽」については、以下を参考にしてください。
さて、『~ 古楽のすすめ』「十一章」では、「忘れ去られた音楽」という表題で、中世からルネサンス、バロック時代の「民間」(= 庶民、民衆)の音楽がテーマになっています。この時代の民間の音楽はほとんど残されていません。しかし、金澤正剛によると、その一部分は知識階級によって採譜されていて、現代でも残っていると言えるでしょう。

しかし、「採譜」という手段を用いずとも、もっとさりげなく後世に伝えられている可能性もある、と金澤正剛は述べています。

 「庶民の音楽の影響は〔中略〕ごく自然に宗教曲や知識階級の音楽などに伝わり、間接的な形で今日に伝えられているという可能性もある。例えばキリスト教音楽の根源であるグレゴリオ聖歌も、もとをたどればキリストを信じる民衆が集まって一緒に詩篇を歌ったことから次第に発達していったわけであるから、もともと庶民的な要素を含んでいたはずである」(金澤正剛『新版 古楽のすすめ』(2010年、音楽之友社) p. 230)

 金澤正剛によるグレゴリオ聖歌の発生の説明が正しいのであれば、グレゴリオ聖歌は、神の旋律ではなく、つまり、もともと神によって絶対的にそこに存在する旋律ではなく、庶民から発生したということになるのではないでしょうか。

んー、ちょっと聖書を読んでみないと分からないですね(笑) 聖書に「神が歌う」あるいは「キリストが歌う」という記述はあるのでしょうか・・・。もしこういった記述があれば、「グレゴリオ聖歌」は 神 に よ る 歌 と言えなくもないかもしれませんが・・・。

すみません、確かなことは言えませんので(笑) なしにして下さい。ただ、次のことは言えるはず(笑、相変わらず曖昧な言い方ですが)です。

つまり、けっきょく西洋音楽というのは、民俗(族)的な音楽の一つでしかありません。いわゆるクラシックが お 高 く とまっているとしても、これが最上の価値のある・絶対の音楽ではないのです。

もう少しつっこんで言いたいことを言うと、このことから、娯楽としてのポピュラー音楽アナリーゼの限界が見えてくるのではないでしょうか。いきなり「娯楽としてのポピュラー音楽アナリーゼ」とか言い始めて何だ、という話ですが(笑) これは私の尊敬する音楽家の一人である菊地成孔がよく発言している、音楽の楽しみ方です(すみません、発言元が今手許にないので、「ここで言っている!」と正確には言えないのですが)。

つまり、確かにポピュラー音楽は西洋音楽理論をうすーくしたものを土台にしていますが、この西洋音楽理論で以ってポピュラー音楽を分析したところであまり意味がない。というのも、ポピュラー音楽には、西洋音楽理論から漏れまくる要素がたくさんあるし、ここにポピュラー音楽の最大の魅力があるからです。西洋音楽理論的に高度な・なかなか面白い楽曲が、価値のある音楽とは言えない、ということです。

しかし、西洋音楽理論リテラシー(こんな言い方があるかどうかは知りませんが)の問題は残るでしょう。どういうことか。西洋音楽理論を知っていた方が、ポピュラー音楽活動にとって有用かどうか、ということです。どうなんでしょうね。どうでもいい気がしますが(笑)


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