最近、復習を兼ねて西洋音楽史関連の書籍を読み直しています。
今読んでいるのはコレ。
それで、始めの方からちょっとずつ読んでいるのですが、ちょっと疑問に思ったことがありまして。
ギリシア悲劇とピュタゴラス派の関係性についてです。
西洋音楽史関連の教科書的な書籍というのは、大きく分けると2パータンあって、
(1)中世グレゴリオ聖歌から始まるもの
(2)中世グレゴリオ聖歌以前から始まるもの
という。
「(1)中世グレゴリオ聖歌から始まるもの」は、やはり「書き残された」「現代においても再現可能な」という点を重要視していて、その「始まり」を中世グレゴリオ聖歌に求めているのですけれども。
「(2)中世グレゴリオ聖歌以前から始まるもの」は、「書き残された」という点を重要視していて、「現代では再現がななか難しいけれども、とにかく石版とかそういうのに記されているから教科書的にもグレゴリオ聖歌より以前に「始まり」を位置づけないとダメだろう」という。
(2)の立場の書籍は、とにかく「始まり」がまちまちで、「新石器時代から人間の音楽活動の記録はあるよ!」とか、「音楽理論の始祖であるピュタゴラスが活躍した古代ギリシアが音楽史の出発点である」とか。
それで、ワタシが今読み直している『はじめての音楽史―古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』は、古代ギリシアを音楽史の出発点として位置づけています。
古代ギリシアの音楽に関連して取り上げられるのは、「叙事詩」「抒情詩」「悲劇」、そして「ピュタゴラス」です。
「叙事詩」「抒情詩」「悲劇」というふうに並べられると、音楽ではなく文学とか演劇の歴史のような印象を受けますが、古代ギリシアにおいては、「音楽それ自体」「文学それ自体」「演劇それ自体」というふうに、例えば音楽であれば音楽だけ独立して成立していた作品はなかったそうです。
音楽も文学(=詩)も演劇(=悲劇)も、作品として発表される際には常にワンセットで、作者は音楽・セリフ・振付けの3つを担当していました。
言わば「総合芸術」です。そしてこの総合芸術が、古代ギリシアでは「ムーシケー μουσικη」と呼ばれ、この「ムーシケー」こそ、現在、英語では「ミュージック music」と呼ばれる「音による芸術」の語源だとされています。
こういった(語源的な)点からも、「西洋」音楽史の出発点として、「音楽それ自体」の作品がなかったとは言え、古代ギリシアが位置づけられているようです。
「ピュタゴラス」、そして彼の率いたピュタゴラス派については現在、音楽理論の始祖として取り上げられています。例えば、(厳密な説明は省略しますが、)「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」といった音階を理論的に基礎付けたのは、現在確認されている限りではピュタゴラス派である、というのが通俗的な知識です。
彼らが「音楽作品を残した」といった記述のある西洋音楽史関連の教科書を読んだことはありませんが、とにかく彼らは音楽と数学を関連づけ、宇宙は「数」でできているのだから、宇宙は音楽を奏でている! 天体のハーモニー! みたいな、かなりヤバめの(笑)、彼が現在生きていたら確実に徳間書店から出版しているでしょ、「超知ライブラリー」シリーズでしょ、っていうか徳間書店 = ピュタゴラス派でしょ(笑)、っていう。
だからピュタゴラス派はかなり、「音楽それ自体」というのを重要視していて。個人的な感想としては。何せ「宇宙の原理 = 数 = 音楽」ですから。人間は、音楽によって宇宙の秩序と一体になって魂を浄化できるのですから。
となると、この両者の関係が、ワタシにとっては疑問なのです。
つまり、「音楽を一要素としてしか扱ってなかった古代ギリシアのムーシケー」と、「音楽を宇宙の原理として重要視していたピュタゴラス派」の間は、相互影響はあったのか?
もしあったとしたら、古代ギリシアにおいて総合芸術とピュタゴラス派的音楽理論が並存していたのは、事態として矛盾しているのではないか?
と、素人としては思うわけです。
まあ、当時の本人たちはそんな深く考えてなかったかもしれないっすね(笑。悲劇作家の連中は、「ピュタゴラス派とかその影響下の理論家連中が何か宇宙の音楽とか言ってるけど、こっちとしてはコンテストで優勝することの方が重要だ! 天体のハルモニア? 知らん!」みたいな(笑)
そもそも、ピュタゴラス派って教科書だと南イタリアですし、あまり相互影響はなかったのかもしれませんね。仮に相互影響があったとしても、資料が現存していないからあまり語られない、とか。
この辺がテーマの本とかあれば、読んでみたいですね。「古代ギリシア悲劇における当時の音楽理論の影響について」みたいな。
というか、ピュタゴラス派の音楽理論て、17世紀科学革命のコペルニクスみたいな位置づけかもしれませんね。いちおう、教科書には名前載ってるけど、実は現在ではあまり重要視されていない、っていう。