Xenakis『Works for Piano, Vol. 4』

1999年にリリースされた、Aki Takahashi 演奏、Charles Peltz 指揮による、ギリシア系フランス人現代音楽作曲家 Xenakis (1922 – 2001) のピアノ作品集。

音楽に理論は絶対に必要とされるわけではない。しかし、理論化されなていない音楽は、或る種の者に対し理論化への欲求をかき立てる。あるいは、理論への回収がすでに完了されている中での戯れ事に過ぎない場合もある。

つまり、音楽は理論化から逃れられない(「理論」という考え方自体についての考察、すなわち「理論とは何か」については、ひとまずここでは置いておく)。非 – 理論としての音楽であっても、それ自体であれ、もしくはそれを成立させるための思想であれ、遅かれ早かれ理論を打ち立てようとする者のいる限り、理論化されてしまうであろう。

当然のように、西洋古典音楽も理論化から逃れられないし、ある時期以降の西洋古典音楽は、理論の更新をその推進力にしていたと考えられる。

Xenakis も、当然その系譜上にいた。彼の音楽は、あくまで西洋古典音楽の範疇内であるが、極めて理性的であり、その作品からは作家が自らの意志を自らの構築した理論の下で音楽という手段で表現しようとする姿勢が、ありありと聴こえてくる。

そしてその結果はどうなるのか。

すなわち、理性を、現在、在り得る限りで突き進めるとどうなるか、そして、それが音楽であるなら。

それは〈狂気〉となるのではないか。

Xenakis のピアノ作品集には、ピアノと言う音律の剥き出しになる楽器の特性上、理性が突き進んだ結果としての〈狂気〉が鳴っている。西洋的楽典に則ったポップミュージックを聞き馴れている者にとって、Xnakis の音楽は、狂気以外のなにものでもない(そう、広い意味でポップミュージックを聞き馴れている者は、肉体に支配されているのではないか。西洋的和声進行にあまりに馴染んでしまっているため、異形に対して拒否反応を起こしてしまうのではなかろうか。それがどれほど理性的であるにも関わらず、だ。

狂気は決して、理性の崩壊だけではなく、理性の構築の果てにも存在するのだ。

ということは、或る理性を他の或る理性で以って理解することはできないかもしれない。ならば理性とは何なのか。あるいは Xenakis には、理性は存在しないのであろうか。

Xenakis の音楽は聴き手に、共通理解と言う観点での認識の問題を投げかける。

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