ハイデガーが聴いた音楽

9 月 9 日に, 光文社からハイデガー『存在と時間』の新訳が発売されます. 今回は中山元訳. 古典新訳文庫のうちの 1 冊で, 全 8 巻 ( ! ) が予定されています.

  • ハイデガー ( 著 ) , 中山元 ( 訳 )『存在と時間 1』( 光文社, 2015 )


今年の 5 月には, 勁草書房の松尾啓吉訳の新装版が発売されたばかりなんですけれども.

  • 松尾啓吉 ( 訳 )『存在と時間 新装板 ( 上 ) ( 下 )』( 勁草書房, 2015 )

正直もう翻訳が出過ぎ感があるので, もう『存在と時間』に関して言えば. いまぱっと思いつく限り挙げると,

  • 松尾啓吉 ( 訳 )『存在と時間 ( 上 ) ( 下 )』( 勁草書房, 1960 )
  • 桑木務 ( 訳 )『存在と時間 ( 上 ) ( 中 ) ( 下 )』( 岩波文庫, 1960 – 63 )
  • 細谷貞雄 ( 訳 )『存在と時間 ( 上 ) ( 下 )』( ちくま学芸文庫, 1994 )
  • 辻村公一 ( 訳 )『有と時』( 創文社, 1997 )
  • 原佑・渡邊二郎 ( 訳 ) 『存在と時間 ( Ⅰ ) ( Ⅱ ) ( Ⅲ )』( 中公クラシックス, 2003 )
  • 熊野純彦 ( 訳 ) 『存在と時間 ( 一 ) ( 二 ) ( 三 ) ( 四 ) 』( 岩波文庫, 2013 )
  • 高田珠樹 ( 訳 ) 『存在と時間』( 作品社, 2013 )

完全にゲシュタルト崩壊を起こしそうな感じで, あと『純粋理性批判』もそうなんですが, ジェネリック訳で十分なのではないか, ていうか 8 巻でるの待ってる間にドイツ語勉強して原書読めるようになった方が早いんちゃうん, 『純粋理性批判』だって 7 巻完結するのに 2 年かかってるし… . などなどという無駄な思いがわいてくるわけですが. そうは言っても一応チェックはしますが.

ていうかハイデガー, やっぱ人気なんですかね. たった 2 年ほどの間に新しい翻訳が 3 種類もでるだなんて. 『黒ノート』が出版されて,

  • Gesamtausgabe Ⅳ. Abteilung : Hinweise und Aufzeichnungen Band 94 Überlegungen Ⅱ – ⅤⅠ ( Schwarze Hefte 1931 – 1938 )
  • Gesamtausgabe Ⅳ. Abteilung : Hinweise und Aufzeichnungen Band 95 Überlegungen ⅤⅡ – ⅠX ( Schwarze Hefte 1938/1939 )
  • Gesamtausgabe Ⅳ. Abteilung : Hinweise und Aufzeichnungen Band 96 Überlegungen XⅡ – XⅤ ( Schwarze Hefte 1939 – 1941 )
  • Gesamtausgabe Ⅳ. Abteilung : Hinweise und Aufzeichnungen Band 97 Anmerkungen Ⅰ – Ⅴ ( Schwarze Hefte 1942 – 1948 )

ユダヤ人差別的な考え方がその哲学の中核をなしているのではないか, といった指摘がされたり,

そんでショックを受けたギュンター・フィガールがハイデガー協会の会長を辞任したり,

けっこう窮地に立たされている感があるので意外です. どうであれ, こうした哲学と政治の話題については, ゴシップ的な側面に踊らされずに, 実際に読んでみるという慎重な態度が必要だと思います. なお, 『黒ノート』については英訳が来年, 2016 年に出版予定です.

それで, このブログは一応, 音楽をテーマにしていますので, ハイデガーと音楽について少し, わりかしどうでもいいことを少し書いてみようと思います.

さて, ジョージ・スタイナーという文芸評論家が 1989 年に発表した『マルティン・ハイデガー』という文献があります. 1992 年に日本語訳が出版され, その後 2002 年に文庫で再版されている, ハイデガーのライトな解説書として有名です.

  • ジョージ・スタイナー ( 著 ) , 生松敬三 ( 訳 )『マルティン・ハイデガー』( 岩波現代文庫, 2000 )

この文献では, ハイデガーと音楽について, 次のように述べられています ( 以下, この文献からの引用ページ数は文庫版に従います ) .

「音楽はハイデガーの考察からはほとんどまったく抜け落ちている。これは一つの欠点だと前にわたしは示唆したことがある。というのは、音楽こそはハイデガーの主要な命題の二つについてのもっともよき例証となりうるものであるからだ」( p. 250 )

音楽がなぜハイデガーの主要な命題の例証になるかは, 後述しますが, 要するにハイデガーには, 音楽についてのまとまった考察がほとんどみられない, とスタイナーは指摘しています.

これはとても面白い. というのも, 西洋哲学と音楽はなかなかどうして, 切っても切れない関係だからです. その関係は時代によって移り変わりつつも, 音楽について肯定的・否定的問わずまとまってある一定の分量を考察した哲学者は多い. いまぱっと思い出すだけでも, 古代においてはプラトン『国家』, アリストテレス『詩学』において主題的ではないにしろ「こう考えられていた」と言える程度は音楽についての記述があります. 中世ではアウグスティヌス (『音楽論』), 近世ではデカルト(『音楽提要』) に,  音楽をメインにした著作があります. さらに時代を下ると, ショーペンハウアーは音楽に大きな価値を見出し, キェルケゴールは皮肉たっぷりのモーツァルト論を残しています. ニーチェはワーグナーに師事した経験がありますし, 現象学においては内的時間の考察の導入として音楽が重要な位置を示しています… , などなど, 枚挙に暇がありません. しかし, こうした音楽と哲学, 音楽美学といったジャンルにおいてハイデガーの名前はあまり見ません. ていうかわたしは見たことがない. スタイナーの言うとおり.

ではハイデガーがまったく音楽に無頓着だったかというと, そうではありません. ハイデガーは音楽をたしなんでいました. この点について紹介する前に, 「ハイデガーの主要なテーマ」と音楽がどのように関連しているのかについて, スタイナーの考えを確認しておきましょう. 「ハイデガーの主要なテーマ」とは言うまでもなく「存在」についてです. 一応. でも読み飛ばし可.

先にわたしが引用した部分につづいて, スタイナーは次のように述べています. つまり, 「音楽こそはハイデガーの主要な命題の二つについてのもっともよき例証となりうるもの」なのですが, その 2 つとは何なのでしょうか.

「その一つは、意味は明白で人に迫ってくるけれども、他のコードには翻訳しえないことがあるという事実である。もう一つは、意味深長な実存の源泉、実存的エネルギーと知的出来事の核心を、みまがうべくもなくわれわれの眼前のそこにある一つの現象、一つの構造の中に位置付けようとするときに出会う極度の困難である」 ( p. 250 )

要するに, 存在についてなんとなく知ってはいるけどでは存在とは何かと問われたら答えに困ることは, 音楽についてなんとなく知ってはいるけどでは音楽とは何かと問われたら答えに困ることに似ている. しかも存在も音楽も, 存在ではないことや音楽ではないことに置き換えることはできない. と, こういうことを言いたいのだと思います. より詳しくは同書の pp. 115 – 118 で丁寧に説明されています. し, まあ, なんでもいいのでハイデガーの薄い解説書なんかを読めばああ, なんとなくそういうことなのか, と分かる. はず.

と, とても分かりやすい例示・説明だとは思いますが, わたしはこの説明はちょっと違うのではないかと考えます. ていうか音楽を存在の例示にすることはできないのではないか. 決定的には. というのも, 音楽は音楽でないことを音楽にしていきます ( し, してきました ) が, 存在は存在でないこと存在にすることはできないからです. 存在の分かりにくさ, だから存在について問うことの面白さを, 音楽で例示することは, 存在・音楽両方の分かりにくさ・面白さそれぞれの特徴を無視してしまうことにはならないでしょうか.

えー, この辺, 突っ込み始めるとずぶずぶになってしまいますので.

話を元にもどしましょう. ハイデガーは音楽をメインに考察することは本当に少なかった. わたしもくまなく著作を読んだわけではないので, 見落としがあるかもしれませんが, 確かに, ハイデガーが音楽音楽言っている著作を読んだことがありません ( ご存知の方がいらっしゃいましたら, ご教示ください ) .

ハイデガーのいちおう美学的著作, 『芸術作品の起源』でも, 芸術の一例として音楽について記述がありますが, 本当に一例です ( ハイデガーは何よりも「詩作」を重んじました )

  • M. ハイデッガー ( 著 ), 関口浩 ( 訳 )『芸術作品の根源』( 平凡社ライブラリー, 2008 )

しかし既に述べた通り, ハイデガーがまったく音楽に無頓着だったかと言えば, そうではありませんし, 演奏会に足を運んだり, あるいは恋人に ( てか愛人 ) への手紙に曲名を添えたりしている記録が残されています. これらの記録を見てとることができるのはもちろん, ハイデガーとアーレントの往復書簡からです.

  • U・ルッツ ( 編 ), 大島かおり・木田元 ( 訳 )『アーレント = ハイデガー往復書簡 1925 – 1975』( みすず書房, 2003 )

えー, ハイデガーとアーレントのなれそめというか, ゴシップ的な関係については,

  • E・エティンガー ( 著 ), 大島かおり ( 訳 )『アーレントとハイデガー』 ( みすず書房, 1996 )

なんかを読めばわりと分かりやすいので ( この本についてはゴシップがすぎるという批難もありますが笑 ), ここでは省略します.

では, 例によって例のごとく前置きが長くなってしまいましたが, このよくも悪くも 20 世紀最大の哲学者ハイデガーによる一流の恋文集から笑, いやもうこれね, すごいっすよ笑, ほんーと, 読む価値あります笑, ではでは, ハイデガーがどのような音楽をたしなんでいたかを紹介しましょう.

まずは演奏会について, ハイデガーからアーレント宛, 1925年 9 月 14 日の手紙から.

「もしも仕事の手があいたら, 九月二一日にちょっと山を降りてフライブルクへ行ってくる---グルリットがコレギウム・ムジークムで, ドイツ・バロック音楽をプレトリウス・オルガンで演奏するのだ ( プレトリウス, シャイト, パッヘルベル, ブクステフーデ )」

プレトリウス Michael Praetorius , シャイト Samuel Scheidt , パッヘルベル Johann Pachelbel, ブクステフーデ Dieterich Buxtehude いずれも 16 〜 17 世紀頃の音楽家で, 作曲家・オルガン奏者でした.

この演奏会に実際に行ったのかどうか, また感想のようなものは, この書簡集にみられないのが残念ですが, なかなか素敵じゃないですか. ドイツ・バロックだなんて.

ハイデガーが演奏会へ行く記録は他にも, 1951 年 2 月 6 日のハイデガーからアーレント宛の手紙にでてきます. 同年の 1 月に, カール・オルフ Carl Orff 『アンティゴネー』Antigone の上演に行っています. このソフォクレスの悲劇をもとにした音楽劇 ( オルフ自身は, 自らの音楽劇を「世界劇」と称していました ) を, ハイデガーは公演を気に入ったようで, 同じ手紙において,

「完全にヘルダーリン訳を使った音楽。これほどのものをわたしは久しく味わったことがない」

「オルフは所作と踊りとことばの根源的な統一にまで遡るもの、そこから激しく生まれ出てくるものを、表現することにかなり成功している。オルフはヘルダーリンをとおして、ある独自の仕方でギリシャ的なものへ到達したのだ。ある瞬間瞬間に、神々がそこにいた。」

と評しています. これは要するにめっちゃヤバかった, と言いたいわけです.

また前述の通り. アーレント宛の手紙の冒頭に, 楽曲名を記載してもいます. たとえば, ベートーヴェン「ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111」 ( 1950 年 4 月 12 日の手紙 ) や ,

  • ハインリヒ・シェンカー ( 著 ), 山田三香 他 ( 訳 )『ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番 op.111 批判校訂版: 分析・演奏・文献』( 音楽之友社, 2014 )

バッハ「ブランデンブルク協奏曲 第三番 第二楽章 アレグロ」( 1950 年 3 月 19 日の手紙 ) です. ブランデンブルク協奏曲は他に, 1950 年 10 月 6 日の手紙にも記述がでてきます (「第 1 番 最終楽章」) . 「この曲, 知ってる ? 」みたいなノリで笑.

いまなら LINE で Youtube の URL  を紹介し合うみたいな感じでしょうか.

このように, ハイデガーの著作から音楽についてのまとまった考察を見つけるのはなかなか難しいですが, ハイデガーは音楽をたしなんでいたことがわかります. バッハ, ベートーヴェン, そして当時の最先端だったオルフ, やっぱ音楽でもドイツ! なんですね.

ハイデガーに, 音楽をメインにした考察がなぜ少ないのか. あるいは, ハイデガー哲学で音楽を論じるとどうなるのか. といった空想は面白いかもしれませんが… このエントリーではそこまで突っ込みません.

秋の夜長, ブランデンブルク協奏曲を聴きながら『存在と時間』を読む…, これはちょっと相当なマルチタスク力が必要ですが笑, 両作ともスゴい密度ですので笑, ブランデンブルク協奏曲を聴きながらハイデガーとアーレントの書簡集を読む, なんてのはありかもしれませんね. いや, ないな…, 本読むときは音楽消したいしな…


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