ヒップホップ界において「Dilla Time」と称される独特なリズム感とサンプリング技術で知られるJ Dilla。彼の音楽は、ジャズ、ソウル、ヒップホップを新たな形で融合させ、後世に多大な影響を与えたことはよく知られています。しかし、彼の人生には壮絶な闘病生活という側面があったことをご存じでしょうか?
今年 2 月に出版された Dan Charnas『Dilla Time』「J Dilla」では、J Dillaの音楽的偉業と並んで、彼の健康問題や家族との関わりが詳細に記されています。本記事では、「J Dilla」を元に、J Dilla の闘病生活の具体的なエピソードを詳しく紹介します。
J Dilla を襲った健康問題
J Dilla(本名: James Dewitt Yancey)は、デトロイト出身のヒップホップ・プロデューサーであり、特にSlum Village、A Tribe Called Quest、Commonなど多くのアーティストとコラボレーションしてきました。彼の特徴は、いわゆる「Dilla Time」と呼ばれる、通常のグリッドに縛られない微妙なタイミングのビートです。このリズムは、クラシックなヒップホップの常識を覆し、音楽制作の新しい基準を作り上げました。
しかし、彼のキャリアの頂点とも言える時期に突如として健康問題が彼を襲います。その病名は、血栓性血小板減少性紫斑病でした。
病の発症と診断
2003年1月、J Dillaは海外ツアーを終えてデトロイトに帰国後、体調の異変を感じました。血尿や激しい下痢、発熱などの症状に見舞われ、病院で診察を受けた結果、血小板の異常な減少が判明します。通常、血小板数は15万/µL以上が正常ですが、J Dillaの血小板数は1万以下という危険な状態でした。医師たちは彼に即座に入院し、血漿交換療法を受ける必要があると告げました。
TTPは極めて稀な血液疾患で、血液が過剰に凝固し、小さな血管を詰まらせる病気です。この状態は、赤血球が破壊され、臓器不全や致命的な出血を引き起こします。さらに、TTPは自己免疫疾患の一種であり、体内のADAMTS-13という酵素を攻撃する抗体が原因で発症します。当時、この病気に対する研究は進んでおらず、効果的な治療法は血漿交換療法に限られていました。
厳しい治療と家族の支え
血漿交換療法は、血液中の異常なタンパク質を取り除き、ドナーからの健康な血漿で置き換える治療です。しかし、J Dillaの場合、この治療を繰り返しても血小板数は安定せず、さらに腎臓にも深刻なダメージが及び、透析が必要となりました。彼の母Maureenは、献身的に彼を支え、治療の付き添いはもちろん、彼が音楽制作を続けられるよう、自宅のダイニングテーブルに機材を設置するなど、彼の生活をサポートしました。
音楽への情熱が支えた闘病生活
手元に置かれた機材
闘病中も音楽制作を続けるために、J Dillaは Akai MPC3000 や ターンテーブル を手元に置いていました。これらは彼の音楽制作の核となるもので、特にMPC3000は彼のリズム感とビート作りを形にする重要なツールでした。また、プラグインを活用したPro Toolsを使用しており、どんな状況でも高い音質でトラックを仕上げることにこだわっていました。彼の家族が機材を設置したことで、彼は病室や自宅で新しい音楽を生み出すことができました。
抑うつとの闘い
病気との戦いの中で、J Dillaはしばしば抑うつや絶望感に苛まれていました。透析や治療に費やす時間は、彼にとって音楽制作を妨げる「最悪の薬」とも感じられていたようです。特に、体力的な限界に直面する中で、これまで自分を支えてきた音楽活動が困難になる恐怖に苛まれました。彼の友人であるDJ Fingersは、彼の抑うつを和らげるため、透析の付き添いや励ましの言葉を惜しみませんでした。「お前の血圧が下がっても、俺が支える」と語りかけるなど、彼の精神的な支えとなるエピソードも多く残されています。
Brother Jack McDuff「Oblighetto(remix)」
J Dillaは病気と闘いながらも、音楽制作を決して諦めませんでした。彼の闘病中の作品には、Brother Jack McDuffの楽曲「Oblighetto」を再構築したリミックスが含まれています。このリミックスは、原曲へのリスペクトを残しつつ、J Dillaの個性を存分に発揮したものでした。彼はまた、次のプロジェクトのための新たなビートを生み出し続け、その過程で、同じく革新的なプロデューサーであるMadlibとのコラボレーションを深めていきました。
J Dilla の制作環境は病室や自宅のどこにでも設置され、彼の制作ペースは衰えませんでした。音楽が彼にとって単なる仕事ではなく、生きる力そのものであったことがよくわかります。
ロサンゼルスへの移住と再起への挑戦
2004年、彼はより良い医療環境を求めてロサンゼルスに移住しました。そこでは、CommonやMadlib、Stones Throw Recordsの仲間たちが彼を支え、新たな音楽活動の拠点となりました。ロサンゼルスの自宅でも彼はMPCやターンテーブルを駆使して制作を続けました。また、音楽仲間とのコラボレーションを通じて、さらなる創作意欲を引き出していったのです。
今回の記事では、J Dillaの壮絶な闘病生活について紹介しました。稀少な血液疾患と闘いながらも、音楽への情熱を失わず、家族や仲間の支えを受けながら創作活動を続けた彼の姿は、多くの人々に感動を与えています。音楽史におけるJ Dillaの革新性と、彼の人間的な一面を知ることで、彼の作品に込められた深い意味をより感じ取ることができるのではないでしょうか。
次回の記事では、彼の最期の瞬間と、遺作としてリリースされたアルバム『Donuts』について詳しく解説します。