ジャズ前史(3): スコット・ジョプリンとラグタイムの革命

Scott Joplin(スコット・ジョプリン, 1868年頃 – 1917年)は、アメリカの作曲家であり、特にラグタイム(Ragtime)という音楽ジャンルを大衆に広めたことで知られています。ラグタイムは、ブルースと並んでジャズの前身とされており、19世紀末から20世紀初頭にかけてアフリカ系アメリカ人の音楽として発展しました。ラグタイムは、ピアノを中心にした軽快なリズムと複雑なシンコペーション(拍の強弱をずらしたリズム)が特徴的で、Joplin はその中で特に優れた作曲家として名を残しました。

Joplin の音楽的ルーツは、アメリカ南部で育った彼の家庭環境にあります。父親は奴隷解放前にバイオリニストとして活動しており、母親もバンジョーを演奏していました。Joplin は、幼い頃からこの影響を受け、ピアノに強い興味を示し、早い段階でプロのピアニストとして活動を始めました。彼はセントルイスやシカゴ、さらにはセダリアといった都市で経験を積み、後にラグタイムの最も著名な作曲家として名を馳せます。

彼の代表作「Maple Leaf Rag」(1899年出版)は、ラグタイムの象徴的な楽曲となり、彼を一躍有名にしました。この作品は、アメリカの一般大衆に向けたピアノ楽譜として広まり、多くのアマチュアピアニストに愛されました。しかし、Joplin は単なるラグタイム作曲家にとどまらず、音楽の革新者としての側面も持っており、彼の音楽にはラグタイムに対する深い探求と高い志が反映されています。

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2. Ragtime と Jazz の微妙な境界線

Scott Joplin が活躍していた時代、ラグタイムとジャズは非常に密接に関わり合っていました。実際、ラグタイムと初期のジャズの境界は曖昧であり、これらの音楽が同じものだと認識されていたこともありました。特にニューオーリンズで発展したジャズの初期段階では、ラグタイムとジャズはしばしば混同され、同義語として使われていたこともあります。しかし、現代の視点から見ると、両者は異なる音楽スタイルであり、特に演奏技法やリズムの使い方に違いがあります。

ラグタイムは主にピアノを中心とした器楽的な音楽で、作曲された楽譜に基づいて演奏されるのが一般的です。一方で、ジャズは即興演奏を重視し、楽譜にとらわれず自由な表現を行うことが特徴です。Jelly Roll Morton(ジェリー・ロール・モートン)が示したように、ラグタイムの名曲「Maple Leaf Rag」も、彼の解釈によってラグタイム風とジャズ風の両方のスタイルで演奏されることができました。モートンは、ラグタイムとジャズの間に明確な区別がないと指摘し、特に30年代のジャズピアニストであるFats Waller(ファッツ・ウォーラー)やArt Tatum(アート・テイタム)を「極めて高度な形でのラグタイム・ピアニスト」と表現しています。

しかし、多くの音楽史家はモートンのこの見解に異議を唱えています。ラグタイムは、その名の由来ともなった「ragging」(リズムを引きずるように演奏する)というスタイルに象徴されるように、一定のリズムとシンコペーションを基盤とした作曲技法が中心です。ラグタイムの左手の伴奏は、1拍目と3拍目に低音のベース音を鳴らし、2拍目と4拍目に中音域の和音を付ける「マーチング・リズム」を特徴としています。この四拍子のリズムは、ピアノ独奏でも十分に豊かな音楽を生み出すことができ、Joplin をはじめとするラグタイムの作曲家たちはこの技法を駆使して、独自の音楽世界を築き上げました。

一方、ジャズのピアニストたちは、即興性を重視し、ラグタイムの固定されたリズムやメロディの枠を超えて、より自由で流動的な演奏スタイルを発展させていきました。ラグタイムの演奏技術は、特に左手の強力なリズムと右手の複雑なシンコペーションの使い方において、ジャズの発展に大きな影響を与えました。ラグタイムは作曲の技法であり、ジャズは演奏のスタイルという捉え方が最も的確かもしれません。

3. Scott Joplin と Ragtime の代表作

Scott Joplin は数多くの名曲を作曲しましたが、その中でも最もよく知られているのは「Maple Leaf Rag」(1899年)です。この作品は、ラグタイムの象徴的な楽曲として広く知られており、Joplin の名を一躍有名にしました。「Maple Leaf Rag」はラグタイムの楽譜が一般に広まった最初の成功例の一つであり、その後のピアノ楽曲やラグタイム全体に大きな影響を与えました。

この曲は、16小節のテーマが4つのセクション(AABBACCDD)で構成されており、特にリズミカルな強調が特徴です。右手が複雑なシンコペーションを展開し、左手が安定したベースラインを保つという構造は、ラグタイムの典型的な特徴を持っています。このシンコペーションは、ラグタイムの要となる要素であり、ジャズのリズム感にも大きな影響を与えました。

「Maple Leaf Rag」は当初、出版された際にはあまり売れませんでしたが、1900年に入ると徐々に人気が高まり、最終的には100万部以上が販売されたと言われています。これは当時のアメリカにおいて驚異的な数字であり、プロのミュージシャンだけでなく、アマチュアのピアニストにも広く演奏されました。Joplin の作曲したラグは、一般的に演奏が難しく、特にシンコペーションやリズムの正確さが求められるため、多くのピアニストにとって挑戦的な作品でした。しかし、その技術的な難しさにもかかわらず、「Maple Leaf Rag」はそのリズミカルな魅力によって、多くの人々を引きつけました。

また、Joplin は「Maple Leaf Rag」以外にも多くのラグタイム作品を生み出しています。例えば、「The Entertainer」(1902年)は、後に1970年代に再評価され、映画『スティング』のテーマ曲として広く知られるようになりました。この曲も「Maple Leaf Rag」と同様に、ピアノを中心とした楽曲であり、Joplin のシンコペーションとメロディの巧みさが際立っています。

さらに、Joplin のラグタイム作品には、パーラー・ワルツの洗練された要素を取り入れた「Bethena」(1905年)や、ハバネラのリズムを取り入れた「Solace」(1909年)など、多様な音楽的実験が見られます。特に「Solace」は、Joplin がラグタイムの枠を超えた作曲技法を追求していたことを示しており、その音楽的範囲の広さが感じられます。これらの作品は、単なる娯楽音楽としてのラグタイムではなく、より深い芸術性を追求したJoplin の志を反映しています。

4. 「Maple Leaf Rag」の成功とその後の影響

Scott Joplin の「Maple Leaf Rag」は、ラグタイム音楽史において画期的な作品であり、その成功はJoplin のキャリアにおいても大きな転機となりました。1899年に John Stark という音楽出版社によって出版されたこの作品は、当初はわずか400部程度しか売れませんでしたが、1900年代に入ってから一気に人気が高まり、最終的には100万部以上が販売されたとされています。この驚異的な商業的成功は、当時の音楽出版業界においても特筆すべき出来事でした。

「Maple Leaf Rag」の成功は、ラグタイムを広く一般に浸透させ、アメリカ中のピアノ愛好者たちに新たな音楽体験をもたらしました。Joplin 自身も、この作品をきっかけに著名な作曲家としての地位を確立し、後に数々のラグタイムの名曲を生み出すことになります。この作品が特に評価されたのは、そのリズムの革新性と、Joplin の卓越した作曲技法です。右手で展開されるシンコペーションのリズムは、当時の他の音楽に比べて非常に複雑でありながらも、耳に心地よいメロディを形成していました。また、左手のベースラインが安定したリズムを刻み、全体としてバランスの取れた楽曲構成が特徴です。

この成功は、アメリカ全土にラグタイムブームを巻き起こし、多くの作曲家やピアニストがこの新しい音楽スタイルを追随しました。特に、ピアノを中心としたラグタイムのスタイルは、当時のアメリカの家庭で普及していたピアノ文化とも相まって、ラグタイムが家庭で演奏される音楽の一つとして定着しました。実際、1890年から1909年にかけて、アメリカでのピアノの生産量は年に10万台以下から35万台以上に急増しており、この時期はラグタイムの最盛期でもありました。ラグタイムの普及とピアノ文化の拡大は密接に関係しており、Joplin の「Maple Leaf Rag」の成功が、その象徴的な役割を果たしたと言えるでしょう。

さらに、この成功により、Joplin はラグタイムという音楽ジャンルを単なる大衆音楽の枠を超えて、芸術性の高い音楽へと昇華させることを目指しました。彼の後の作品には、より洗練されたメロディやリズムの工夫が見られ、「Maple Leaf Rag」に見られる単純なリズムの反復を超えた、豊かな表現力を追求しています。このようなJoplin の音楽的探求心は、彼が後に取り組むことになるラグタイム・オペラ「Treemonisha」へとつながっていきます。

5. Joplin の挑戦と革新: Ragtime オペラ「Treemonisha」

Scott Joplin は、単なるラグタイム作曲家にとどまらず、音楽の枠を超えた芸術的探求を続けました。その象徴的な試みが、彼の作曲したオペラ「Treemonisha」(トゥリーモニシャ)です。「Treemonisha」は、単にラグタイムの要素を取り入れた作品ではなく、アフリカ系アメリカ人の音楽と西洋の伝統的なオペラ形式を融合させた、まったく新しい音楽形式を目指したものでした。このオペラは、ラグタイムの大衆的なイメージを払拭し、Joplin の音楽に対する高い志を示す作品として位置づけられています。

「Treemonisha」の構想は、1900年代初頭からすでに始まっていたとされており、Joplin はこのプロジェクトに長年をかけて取り組みました。彼は当時の社会問題にも鋭い視点を持ち、特にアフリカ系アメリカ人の教育や社会的向上をテーマに掲げました。「Treemonisha」は、南部の田舎町を舞台に、主人公トゥリーモニシャが知識と教育を通じてコミュニティの人々を導く物語です。この作品は、教育の重要性と、黒人社会におけるリーダーシップの必要性を訴えたものであり、Joplin 自身の社会的なメッセージが込められています。

音楽的にも「Treemonisha」は、Joplin の他のラグタイム作品とは一線を画しています。オペラには、伝統的な西洋オペラの形式である序曲、レチタティーヴォ(台詞のように歌われる部分)、アリア(歌う部分)などが含まれ、ラグタイムの軽快なリズムだけではなく、彼が取り入れたクラシック音楽の影響も色濃く反映されています。この作品は、Joplin の作曲技法がラグタイムを超え、より幅広い音楽的領域へと進化していたことを示す重要な証拠です。

しかし、この野心的な作品は、当時の社会的・文化的な状況の中ではあまり受け入れられませんでした。特に、アフリカ系アメリカ人が主役を演じるオペラという形式自体が斬新であり、商業的にも成功する見込みは低かったため、出版や上演に苦労しました。Joplin は1911年に自費で「Treemonisha」のピアノスコアを出版しましたが、全編が実際に上演されたのは1915年、ハーレムでの1回限りの公演に過ぎませんでした。この公演は、リハーサル不足、衣装やセットの不備、オーケストラがなくJoplin 自身がピアノを演奏するという状況下で行われ、成功には至りませんでした。

「Treemonisha」に対する世間の反応は冷淡であり、Joplin はこのプロジェクトに全力を注いだ結果、財政的にも大きな負担を抱えることになりました。彼はその後、さらに作品を完成させるための資金を集めることができず、音楽的キャリアは次第に失速していきます。そして1916年、Joplin は健康状態が悪化し、最終的にはニューヨークの精神病院に収容され、1917年に亡くなりました。

「Treemonisha」は、Joplin の死後も長らく忘れ去られていましたが、1970年代に入ってラグタイムの復興が進む中で再評価されました。1972年には、ついにオーケストラを伴った完全版が初演され、ラグタイムとクラシック音楽の融合を果たした作品として高い評価を得ることとなります。そして、1983年にはこの功績が認められ、Joplin は死後、ピューリッツァー賞を授与されました。このことは、彼の音楽が単なる大衆音楽ではなく、芸術的価値を持つものであることを示す象徴的な出来事でした。

6. Scott Joplin の死後の評価と再評価

Scott Joplin が1917年に亡くなった後、彼の音楽は長い間忘れられていました。ラグタイム自体が1920年代に入ると衰退し、より自由で即興性を持つジャズが主流となっていったため、Joplin の作品も時代遅れとみなされるようになったのです。また、彼のラグタイム音楽は「軽音楽」として軽視され、クラシック音楽のような高尚な芸術とは見なされていませんでした。Joplin の名が再び脚光を浴びるまでには、数十年の歳月を要しました。

彼の作品が再評価されるきっかけとなったのは、1950年代に出版された Rudi Blesh と Harriet Janis による著書『They All Played Ragtime』でした。この本は、Joplin をはじめとするラグタイム作曲家たちの功績を再認識させ、ラグタイム音楽の歴史的重要性を広く知らしめる役割を果たしました。これにより、Joplin の音楽に対する興味が徐々に復活し始め、特に1970年代に入ると大規模なラグタイム復興が起こりました。

1970年代には、Joplin の音楽が再びアメリカ文化の一部として復活します。映画『スティング』(1973年)で彼の曲「The Entertainer」が使用され、これが大ヒットしたことが一つのきっかけとなりました。この曲は映画の影響で再び大衆に広まり、Joplin の名は世界中で知られることになりました。また、彼の作品が再び録音され、多くのピアニストが彼のラグタイム作品を演奏するようになりました。1970年代半ばには、Joplin の音楽の販売枚数が「ロックスター並み」とも評されるほどの成功を収め、ラグタイムの第一人者としての地位を確立しました。

さらに、Joplin が残した野心的な作品「Treemonisha」も再評価されました。60年近くも忘れ去られていたこのオペラは、1972年にオーケストラによる完全な形で初演され、大きな反響を呼びました。こうして「Treemonisha」は音楽史の中で重要な位置を占める作品として認識されるようになり、Joplin の高尚な音楽的追求が時を経て評価されることとなりました。

1983年には、Joplin にピューリッツァー賞が追贈され、彼の音楽が正式にアメリカの文化遺産として認められました。これは、彼が長い間抱いていた「ラグタイムを芸術音楽として認めさせたい」という夢が、彼の死後についに実現したことを意味します。Joplin の音楽は、単なる娯楽としてのラグタイムを超えて、アフリカ系アメリカ人の文化遺産として、そしてアメリカ音楽史において重要な位置を占める作品として評価されています。

Joplin は、ラグタイムという枠組みを超えて、アフリカ系アメリカ人の音楽と西洋のクラシック音楽の融合を試みた先駆者であり、その革新性は後のジャズやアメリカ音楽全体に大きな影響を与えました。彼の音楽的功績は、Duke Ellington(デューク・エリントン)や Charles Mingus(チャールズ・ミンガス)など、後の偉大なジャズアーティストたちにも影響を与え、Joplin の名前は今やアメリカ音楽史の中で欠かせないものとなっています。

彼の音楽は、ラグタイム復興を経て再び輝きを取り戻し、その後も多くのミュージシャンや研究者に愛され続けています。Joplin の作品は、彼が生前に抱いた高い志とともに、今もなお多くの人々に感動を与え続けています。

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