西洋音楽史、前古典派の4回目です。前回のエントリーまでで、イタリアにおける前古典派音楽、特にナポリとミラノについて取り上げました。
今回も引き続きイタリアの音楽について取り上げます。舞台はヴェネツィア、トリノ、ボローニャです。
目次
ヴェネツィア
オスペダーレ
ヴェネツィアには当時、オスペダーレ Ospedale と呼ばれる4つの女子孤児院がありました。楽長をはじめとする優れた教師が雇われたオスペダーレは、ヴェネツィアにおける音楽活動の重要な供給源になっていました。
例えば、オスペダーレ・デラ・ピエタ Ospedale della Pietà の楽長には、
- ヴィヴァルディ Antonio Lucio Vivaldi
- ポルポラ Nicola Antonio Porpora
- サルティ Giuseppe Sarti
が、オスペダーレ・デリ・インクラビーリ Ospedale degli Incurabili の楽長には、
- ガルッピ Baldassare Galuppi
- ハッセ Johann Adolph Hasse
- ヨメッリ Niccolò Jommelli
らが就任しました。
また、同時期のヴェネツィアでは、アルビノーニ Tomaso Giovanni Albinoni も活躍しました。
ラ・フェニーチェ劇場
しかし、ヴィヴァルディやアルビノーニの後は、ヴェネツィアで活躍した音楽家は少なかった。
注目されたのは、ガルッピ Baldassare Galuppi のオペラ・ブッファ程度でした。
このガルッピ以降も、オスペダーレ・デラ・ピエタ以外の孤児院の倒産とそれに伴う国営化、さらに1797年ナポレオンによる共和国解体により、ヴェネツィアでの音楽活動は低迷していきました。
こうした低迷期のなかで唯一、国際的な名声を保ったのが、1792年に開場したラ・フェニーチェ劇場 Teatro La Fenice でした。
トリノ
ソミス門下
トリノはこの時期、音楽的に注目すべき最盛期を迎えました。
ヴァイオリオンの名手として知られたソミス Giovanni Battista Somis の門下から、ルクレール Jean-Marie Leclair 、ジャルディーニ Louis-Gabriel Guillemain 、プニャーニ Gaetano Pugnani などが育ち、パリ、ロンドンなど国際的に活躍したからです。
このため、
- クヴァンツ Johann Joachim Quantz
- ベンダ Franz Benda
- モーツァルト Mozart 父子
らドイツ人音楽家が、トリノを訪れました。
カリニャーノ劇場
1710年、トリノではカリニャーノ劇場 Teatro Carignano が開場しました。ここでは、
- ヨメッリ
- ハッセ
- ピッチンニ Niccolò Vito Piccinni
の作品や、J. Chr. バッハ Johann Christian Bach の最初のオペラである《アルタセルセ》Artaserse が上演されました。
ボローニャ
ボローニャ楽派
ボローニャでの音楽活動には、サン・ペトロニオ教会 Basilica di San Petronio とアカデミア・フィラルモニカ Accademia Filarmonica di Bologna が深く関係していました。
サン・ペトロニオ教会では、カッツアーティ Maurizio Cazzati が楽長に就任しました。カッツアーティの下で、
- ヴィターリ Tomaso Antonio Vitali
- トレッリ Giuseppe Torelli
といった作曲家が育ち、彼らはボローニャ楽派 Scuola musicale Bologneseと呼ばれていました。
しかし、1696年にはオーケストラが解体され、ヴェネツィアにその主導的な地位を譲ることになりました。
マルティーニ
1666年に設立されたアカデミーは、作曲家、演奏家、そして理論家に音楽活動の場を提供しました。
1758年には、サン・フランチェスコ教会 Basilica di San Francesco 楽長のマルティーニ Giovanni Battista Martiniがアカデミーの会員になりました。マルティーニはアカデミーの内外問わず、名声を手に入れたそうです。
マルティーニの下では、
- J. Chr. バッハ
- グルック Christoph Willibald Gluck
- グレトリ André Ernest Modeste Grétry
- ヨメッリ
- モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart
が対位法を学びました。
コムナーレ劇場
またボローニャでは、1763年、コムナーレ劇場 Teatro Comunale が開場しました。開場の際に上演されたのは、グルック《クレリアの勝利》Il trionfo di Clelia でした。
この後、コムナーレ劇場は、ボローニャでの音楽の中心的な役割を果たしたと言われています。
参考文献
- 片桐功 他『はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』
- 田村和紀夫『アナリーゼで解き明かす 新 名曲が語る音楽史 グレゴリオ聖歌からポピュラー音楽まで』
- 岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』
- 山根銀ニ『音楽の歴史』