西洋音楽史、前古典派の5回目です。前回のエントリーまでで、イタリアにおける前古典派音楽について取り上げましたが、今回はフランスはパリについて取り上げます。
目次
コンセール・スピリテュエル
1715年、当時のフランス国王であったルイ14世 Louis XIV が亡くなりました。これを契機に、フランスの絶対王政が衰退へ向かいます。さらに啓蒙思想の普及が、やがて来るべき1789年のフランス革命の準備をしつつありました。
こうした社会情勢に伴い、パリの音楽家たちは再び、ヴェルサイユ宮殿から都市パリへと戻ることになります。
この時期に活躍したのが、作曲家のフィリドール Anne Danican Philidor でした。
フィリドールは、オペラ劇場が閉鎖される四旬節などに、パリ市民経音楽を提供する演奏会シリーズ、コンセール・スピリテュエル Le Concert Spirituel の中心的役割を果たしました。コンセール・スピリテュエルは当初、宗教音楽が中心でしたが、後に宗教音楽以外も提供しました。
コンセール・スピリテュエルは1789年のフランス革命まで続き、外国人音楽家にとってはパリ・デビューの場になっていきました。
ここでは、イタリア人ヴァイオリニストのボノンチーニ Giovanni Battista Bononcini 、マンハイム宮廷のシュターミツ Johann Wenzel Stamitz らがパリ・デビューを果たしました。また、モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart も
- 交響曲《パリ》Paris
をコンセール・スピリテュエルで披露しました。
彼らの他には、
- ショーベルト Johann Schobert
- エッカルト Johann Gottfried Eckard
らがクラヴィーアや室内楽の分野で活躍したと言われています。
※室内楽: 重奏の音楽、重奏のための楽曲を室内楽 chamber music と呼びます。重奏とは、複数の人が同時に演奏を行うアンサンブルのうち、各パートを一人ずつ演奏するものです。演奏者の中の少なくとも二人が同じ演奏をするばあい、合奏といいます。なお、伴奏を伴う場合には、伴奏も重奏の中に数え入れるのが一般的です。
オペラ論争
ペルゴレーシ Giovanni Battista Pergolesi のオペラ《奥様女中》La Serva Padrona がパリで上演されて以降、
言葉を重視するフランス・オペラと旋律が優位のイタリア・オペラの優劣を論じるブフォン論争 Querelle des Bouffons が起こりました。
「ブフォン」とは、オペラ・ブッファの道化役者の意味です。この論争は、もともとはオペラ論争でしたが、フランス・オペラを支持した「国王派」とイタリア・オペラを支持した「王妃派」による党派争いでもあったそうです。この論争に、ルソー Jean-Jacques Rousseau は『フランス音楽に関する書簡』Lettre sur la musique française(webサイト「ルソーとフランス・オペラ」- 『フランス音楽に関する手紙』)を発表しました。内容はイタリア音楽の擁護で、フランス音楽、特にラモー Jean-Philippe Rameau が批判されました。
ブフォン論争は1754年、《奥様女中》を上演したバンビーニ座の強制退去によって終わります。これに伴い、フランス宮廷歌劇は徐々に廃れていったそうです。
このような状況の中、オペラ・コミック Opéra comique が誕生し、1768年、グレトリ André-Ernest-Modeste Grétry がヴォルテール Voltaire の小説を元にして作曲した
- 《ユロン》Le Huron
が話題になりました。
※オペラ・コミック: フランスの、歌以外の台詞を含むオペラの一形態。パリにあった劇場オペラ=コミック座 Théâtre national de l’Opéra-Comique と関係していて、元来は名前通りに滑稽で軽いものが主でしたが、、18世紀終盤のフランス革命期からは英雄的で真面目な内容のものが増えていきます。結果、伝統的なオペラとの違いはレチタティーヴォではなく台詞を用いること程度になりました。
さらに1774年には、グルック Christoph Willibald Gluck がウィーンからパリに来て、フランス・オペラに新たな流れを呼びおこしました。グルックによるパリでの第1作は、
- 《オーリドのイフィジェニー》Iphigénie en Aulide
でした。
このグルックのオペラに対抗して、イタリア人ピッチンニ Niccolò Vito Piccinni が同名のイタリア・オペラを上演したことを契機に、「グルック・ピッチンニ論争」という新たなオペラ論争が起こりました。
器楽
交響曲では、マンハイム楽派の影響下に、
- ゴセック François-Joseph Gossec
- メユール Etienne Henri Méhul
がフランス交響曲を発展させました。
室内楽では、
- ルクレール Jean-Marie Leclair
- モンドンヴィル Jean-Joseph de Mondonville
らが注目されていました。
フランス革命の影響
フランス革命以前から、パリではフランス人音楽家よりも、イタリアやドイツの音楽家の方が活躍していたと言われています。
このような状況の中、1790年7月14日開催されたバスチーユ襲撃1周年を記念の第1回「連盟祭」では、ゴセック《テ・デウム》Te Deum が演奏されました。
また、1795年には、後に世界中に開設されるコンセルヴァトワール Conservatoire の模範となったパリ国民音楽院 Conservatoire de musique が開校しました。
1828年からは、「パリ音楽院演奏会」が開始されましたが、演奏されたのはモーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart やベートーヴェン Ludwig van Beethoven でした。
参考文献
- 片桐功 他『はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』
- 田村和紀夫『アナリーゼで解き明かす 新 名曲が語る音楽史 グレゴリオ聖歌からポピュラー音楽まで』
- 岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』
- 山根銀ニ『音楽の歴史』