西洋音楽史、前古典派の3回目です。前回のエントリーでは、イタリアにおける前古典派の音楽、特にナポリ楽派を取り上げました。
今回も前回に引き続きイタリアですが、ナポリではなくミラノを取り上げます。
目次
オペラ
1708年、ミラノは、スペインの支配から解放され、ハプスブルク家 Haus Habsburg の支配下に入りました。
ハプスブルク家とは、ヨーロッパで最も名門と言われる王家です。現在のスイスで、13世紀にドイツ系貴族の家系として誕生しました。政略結婚により、ヨーロッパにおいて広大な領土を獲得し、中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパにおいて強大な勢力を誇っていました。なお、第1次世界大戦をきっかけにして、ハプスブルク家の支配したハプスブルク帝国 Habsburgermonarchie は崩壊しました。ただ、ハプスブルク家自体がなくなったわけではなく、現在ではカール・ハプスブルク Karl Habsburg-Lothringen が家長です。
ハプスブルク家の話題はこの辺にして、18世紀のミラノの音楽事情ですが、このハプスブル家の支配下に入ったのをきっかけに、ミラノでは音楽活動が盛んになったと言われています。
1717年には、レジオ・ドゥカール劇場 Teatro Regio Ducala が開場しました。開場時に上演されたのは、ガスパリーニ Francesco Gasparini《コスタンティーノ》 Costantino というオペラでした。これと同時に、オペラ・ブッファという新しいジャンルが誕生し、劇場で独立して上演されるようになりました。
ミラノは当時、ナポリに並ぶオペラの中心地でした。
- グルック Christoph Willibald von Gluck
- J.Ch.バッハ Johann Christian Bach
らがミラノで音楽を学び、自作のオペラを上演しました。
1778年には、スカラ座劇場 Teatro alla Scala が開場しました。開場時に上演されていたのは、ウィーンの宮廷楽長になっていたサリエリ Antonio Salieri《気に入られたエウローペ》Europa Riconosciutaでした。
やがてロッシーニ Gioachino Antonio Rossini が活躍するようになり、ミラノもまた、ナポリと同じように、19世紀以降、現在まで、イタリア・オペラの中心的な位置を占めるようになりました。
サンマルティーニ
この時期にミラノで活躍した作曲家としては、グルックや J. Ch. バッハに影響を与えたサンマルティーニ Giovanni Battista Sammartini が挙げられます。サンマルティーニは、ミラノの教会の楽長を務めていましたが、交響曲の作曲家として有名でした。
ミラノでは、オペラの他に、強化や貴族の私邸でオーケストラ音楽が盛んに演奏されていましたので、サンマルティーニ以外にも多くの作曲家がいました。
1758年には、アカデミア・フィラルモニカ Accademia Filarmonica という音楽機関が設立され、ハプスブルク家の統治者が音楽を愛好したこともあり、ミラノはイタリアで最も盛んに音楽活動がされた都市でした。
参考文献
- 片桐功 他『はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで』
- 田村和紀夫『アナリーゼで解き明かす 新 名曲が語る音楽史 グレゴリオ聖歌からポピュラー音楽まで』
- 岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』
- 山根銀ニ『音楽の歴史』