新年1発目の記事があまりにもアレな内容でしたので(笑)、ちょっと2発目はマジメ路線でいきたいと思います。テーマは音楽と言語。ちょっとデカ過ぎですか(笑) G・トラシュブロス・ゲオルギアーデスによる同名の著作(『音楽と言語 (講談社学術文庫 (1108))』)もありますが。まあでも、全く文献的裏付けのないままに、思いつくままに、あ、アレですね、エッセー的な感じでですね、書きますので。気軽に読んでいただければと思います。
1.「音楽と言語」の関係における問い
音楽について話す、書く。つまり、音楽を言語化という方法で以って記述する。ということ。このことについては現在に限らず、———おそらくは音楽が始まったのとほぼ同時的に———どのようにしてという問いが常につきまとってきたことでしょう。つまり、言語による音楽の記述には、正解があるのか、あるいは、意味が有るのか、といった問いです。どのように音楽を言語によって記述すれば、それがそれとして正しいのでしょうか。いや、そもそも、音楽を言語によって記述することに意味は有るのか。音楽は音楽に耳を傾けることで十分なのではないか———。こういった問いが、ワタシたちに常につきまとうわけです。「音楽と言語」の関係がテーマにのぼるときには。
2.音楽を言語化することに意味はあるのか
さて、まず「音楽を言語化という方法で以って記述する」ことに意味はあるのか。このことからちょっと考えてみましょう。分かりやすく言えば、音楽について話す、書くことって意味あるの? ってことなんですけれども。さて、この場合の「意味がある」。このことの意味(笑) こういうの、大好きですよね(笑) 「意味の意味」みたいな(笑) 或る種の人にとって(笑) 或る種の人っていうのはワタシみたいな人間なんですけれども(笑) えー、ただ、「そんなことやって意味があるの?」っていう場合の「意味」の「意味」。コレを或る程度ハッキリさせておかないと、話が前に進みません。
意味とは何か。難しいですね(笑) コレだけで一生とりかかることのできる問いですが(笑) 今回はざっくばらんなエントリーということで、ざっくばらんに「役に立つ」「便利」と言い換えることができる。この程度に理解しておきましょう。つまり、「そんなことやって意味があるの?」という場合の「意味」の「意味」は、「役に立つ」「便利」という程度である。と。もっと言えば、「そんなことやって意味があるの?」という場合、「そんなことやって役に立つの?」「便利なの?」というふうに言い換えることができる。「哲学なんてやって意味があるの?」は、「哲学なんてやって役に立つの?」って言い換えることができますし、「音楽学なんてやって何の意味があるの?」は、「音楽学なんてやって何の役に立つの?」に言い換えることができます。ああ、何か書いててちょっと寂しくなってきた(笑) 先に進みましょう(笑)
と、いうふうに、「意味」の「意味」が或る程度ハッキリしたところで、「そんなことやって意味があるの?」の「そんなこと」を、「音楽について書いて」に。「意味があるの?」を、「役に立つ」に。言い換えてみると、次のようになりますよね。つまり、「音楽について書いて役に立つの?」です。
何故、このように、「役に立つの?」というように。「?」がつくのか。やはり音楽はそもそも、聴覚による体験だからですね。評論、レビュー、感想などなどを書く。読む。こういった行為に、何の意味 = 役立ちがあるのでしょうか。評論は、評論であり、言語であり、音楽そのものではない。評論を書いたところで、それは絶対に、音楽ではないのです。残念ながら。「読む」も同じです。評論を読む。これは音楽を聴いているわけではありません。音楽ではないのです(———そうでしょうか? という反論も可能です。そしてワタシの思惑では・・・、書く・読むもまた、1つの音楽的「行為」です。しかしここでは、話を先に進めるために、取りあえず評論・レビュー・感想は音楽的行為ではない。ということにしておきます)。
では、音楽についてのあらゆる言語における記述は、役に立たないのでしょうか。そうとも言えるし、そうでないとも言えましょう。というのも、教育の場面を考えてみてください。この場合の教育とは、学校教育、町のピアノ教室、ヤマハ音楽教室といった先生 – 生徒の関係が確立されたそれだけではありません。たとえば、ロックバンドや、ジャズセッション、オーケストラなどなど。集団で音楽を行為する場面においても、広義の音楽「教育」は行われます。そしてこうした「教育」の「場面」においては、音楽が言語化し、発話・記述されます。ロックバンドでは「ジミヘンっぽいディストーションかけてさあ、」とかね。まあワタシはジャズセッションもオーケストラもしたことないので、ロックバンドでの例しか出せませんが(笑) あとは理論書とかね。言語だらけですよね(笑) 図も載ってますが。
このように、教育という場面では、事実上、「言語」が音楽を形成する重要な契機になっているのです。ただ———「役に立たないのでしょうか。そうとも言えるし、そうでないとも言えましょう」と。「そうでない」と書いたのは、他でもない。「事実」ではなく理想の場合です。つまり、「理想」を言えば、音楽教育において「言語」は必要とされてはいけないのではないでしょうか。町のピアノ教室では、初等ソルフェージュとして「はいこの音は〜?」「ドミソ〜」みたいなですね(笑) ヤマハ音楽教室のCMみたいなのが日々行われているわけですが。究極、理想、理念、ありもしない・達成できないような目標。としてはですね、「ドミソ〜」って言わなくても良いわけですよ。或る音A(※440 Hrz のあの、例の音、イタリア語で「ラ」に言い換えられる音じゃないっすよ!(笑))は或る音A。それ以上でもそれ以下でもなく、そしてそれに対するハーモニーは3度上、5度上、と言語化されてはいますけれども。別に絶対必要なわけではないんですよね。或る音Aに対するハーモニーという考え方が、もし西洋音楽を聴き始めた彼に芽生えたとして、そのハーモニーを形づくる音が、3.2985654度上と5.489439度上だったとか。彼にとって。それでも全ッ然オーケーなわけです。そしてそのときに———、言語化は必要ありません。音楽が、音と音の関係性、そして、その音と音との関係性に対する人間の関係性であるならば(この音楽の定義につきましては、拙論文もどきである『音楽とは何かについての試論』をお読みください)、ワタシたちは、どんーな音でもオーケーなのです。言語化は、「どんーな音でもオーケー」を良い意味でも悪い意味でも調教する。音楽にとって、というか音楽教育において、そういった存在なのかもしれません。
3.音楽を言語化することに正解はあるのか
はい。ということで、音楽を言語化することは役に立つとも言えるし、役に立たないとも言える。と、非常にちゅーとはんぱでアイマイな答えを出したところで、2つ目の問い、「音楽を言語化することに正解はあるのか」へ移りましょう。この問いへは、ワタシはしっかりとした答えを持っています。つまり、「正解はない」。ただし、その人がその音楽に対して嘘をついていない限りにおいて。
と、まあ、「ただし」に続く部分が、幾分曖昧過ぎてですね(笑) 意味分からないことになってますけれども(笑・あ、「意味」っていう単語を使ってしまいましたね。ここでは「役に立つ」っていう意味じゃないですよ、あ? そうかな? どうなんだろう。いやいや、この文章は「意味」が主題ではないので(笑) 先に進みます)
さて、ワタシたちの周囲には、音楽についての文章が溢れかえっています。例えば、教科書ですね。音楽についての教科書。小学校や中学校、高等学校で手にした音楽の授業で使用される教科書のみならず、例えば音楽之友社とかから出されていたりとかですね、そういう大学で使われる系の教育書。あとはリットーミュージックとかから出版されるような、「コレで弾ける! なんちゃってブルースギター」みたいな(笑) あ、こういうのはリットーミュージックからは出てないかもですね、ちょっと舐めすぎですか(笑) そういうのに至るまで。これらの類いの文章は、音楽についての文章として「正解」なのでしょうか。まあ、「先ずはコレだけ! ベースの超・基礎練習!」みたいなのはですね(笑) かなーり怪しいかもですけれども(笑) 確かに。
ただ、うーん、通俗的にはですね、例えば。音楽之友社から『ロック・ミュージックの歴史』という本が出ています。この本は、アメリカの大学で実際に使用されている教科書を日本語訳したものです。この本とですね、『ロッキング・オン』の「特集! ロックの50年!」みたいな(笑) 比べるのが間違ってますか(笑) あー、そうですか! と。そうなります。通俗的には。一方は、歌詞と楽曲の生まれた社会的・アーティストの生い立ち的背景を元にした半ば「感想文」。もう一方は、歌詞・楽曲の生まれた社会的背景に加え、簡単な楽譜、そして簡単なアナリーゼが掲載されています。
さて、この2つに正解/非正解はあるのでしょうか。渋谷陽一の書いたビートルズのレビューと、(コレは東京書籍の本ですが、)田村和紀夫の書いたビートルズ論(『ビートルズ音楽論―音楽学的視点から』)。前者は「俺は武道館で見た」としか書いてなくて(笑・コレ、ちょっと調べたんですけど、ネットで。裏とれませんでしたね、でもポピュラー音楽ファンの間ではよく、揶揄ネタとして出てきて。何で読んだかなー、ワタシも読んだことあるようなないような、微妙なんですけど)、後者は歌詞の分析に加え、楽譜のアナリーゼが行われています。さて、この2つを比べ、正解/非正解、あるいはもっと言うならば、優劣。コレをつけることはできるのでしょうか。
ワタシの答えは明確です。上述の通り、「正解はない」。単純なことです。「正解/非正解」を決める基準がありませんから。別の言い方をすれば、ルール。例えば、数学にはルールがあります。しかし、音楽をどのように書くか、これにルールはありません。ビートルズのこの楽曲が素晴らしい。という、同じ楽曲に対する2つの文章を比べてみる。一方は、当時のジョンとポールの仲の良さ、時代背景、プロデューサーの手腕などなどが書いているとしましょう。そして、その執筆者とビートルズの楽曲の思い出も少し。他方は、Key = Eメジャーに対してイントロのコードがいきなり Am、そしてサビのトップノートでブルーノートとしてシ♭、そのときのコードはF#・・・みたいなことが書かれているとしましょう。両方とも、「偽」で「なければ」。つまり、時代背景・プロデューサー名などに著しい誤りがない限り、そしてコード進行のアナリーゼに誤りのない限り、そしてそして、執筆者とビートルズの思い出に偽りのない限り———、どのように書いたとしてもそれは「正解」です。いや、「真」と言い換えましょう。「正解」というのは、ルールがあってのことですから。あらゆる音楽についての言語は、それが恣意的に「偽」でない限り、「真」なのです(めちゃくちゃ当たり前ですが(笑))。
或る音楽を聴き、或る人にとってはコードネームの連なりとして聴こえるでしょう。或る人にとっては音色として聴こえるでしょう。或る人にとっては歌詞として聴こえ、そしてまた或る人にとっては悲しい別れをした恋人との楽しい思い出として聴こえるのです。そしてそのどれもが、音楽の聴き方として「真」である。何故なら、偽の入る余地がないから。ドビュッシーの楽曲を聴いた。その時、その瞬間、正に、聴いたと思い付いたが同時的に立ち現れたその瞬間。ただしこの瞬間は、断片的ではなくつねに持続としてワタシたちの感性へと侵入する瞬間としての持続、あるいは持続としての瞬間でありますが———、そこには思考の入る余地はありません。その楽曲を聴いた瞬間に思い描かれたとでも言いましょうか。どうしても表現が比喩的になってしまって申し訳ないのですが、———コレがワタシの有する現時点での言語の限界なのです———その「思い描き」。第一次印象。あるいは、第一次経験。こうした印象。経験。を言語化しようとし続ける努力である、その限りにおいて。音楽についてのあらゆる言語による記述は、全てが「真」なのです。
『スヌーザー』の元編集長であった田中宗一郎のレビューはキモいことで有名です。ワタシもキモいと思います。読んでたらこっちが恥ずかしくなるような、そういう文章をお書きになります。しかし、真なのです。彼の書くレビューはおそらく全て、或る音楽を聴いている田中宗一郎の内部で想起された何か。音楽と田中宗一郎の関係性を、何とか、決して完全には言語化されないその「何か」を何とか言語化しようとする営みなのです。だから読み難い。だからキモい。だって見た目がキモいもの。でもでも、彼の文章は「真」なのです。
4.恐れる/畏れることはない。どんどん書こう!
何か最後、田中宗一郎をホめてるのかバカにしてるのかよく分からない文章になりましたが(笑) とにかく、あらゆる音楽に関する言語による記述は、それがその人の音楽との関係を忠実に再現しようとする行為である限り、全て真です。それが楽理的な説明であろうが、詩的な感想文だろうが、「ヤヴァかった」だろうが、全て真であり、そして全て等価値です。
音楽を聴き、何かを書きたい! というキモチが芽生えたなら、とにかく書くことです。それがあなたにとっての音楽です。その文章を読み、誰かの心のなかに音楽が鳴り響きます。鳴り響かない場合もあります。しかし、書きましょう。誰かのなかに音楽が鳴り響けば、それは誰かにとっても、その文章が音楽です。先に、「評論は絶対に音楽ではない」と述べました。違います。評論は音楽に成り得ます。広義の楽譜であり得ます。楽譜を見ます。楽譜は音楽ではありません。そうでしょうか? 確かに、楽譜からは音楽は聴こえません。本当に? でしたら、あなたの内部で鳴っているその音は、音楽ではないのですか? コード譜から音楽は聴こえないのでしょうか? では、ワタシたちの内部で、コード譜を見たときに「よし、このスケールで弾いてヤル!」というひらめき。それは音楽ではないのでしょうか。音楽です。全て音楽だと言えます。或るライブ・レポートを読み、同じ場所を共有した人は、その同じ場所を思い出す。そのとき、レポートを読んだ人の内部に音楽が鳴ってないとでも? そのライブに行ってない人は、ライブを文章で以って疑似体験するのです。ハイスタの再結成ライブ。速報! ネットではこのような文章が日夜生成されています。そして、それを読んだ人が、ハイスタの再結成ライブのことを想起し、そして彼らの内部では音楽が鳴っているのです。でしたら、ライブ・レポートとコード譜は、同じ役割ではなくて?
恐れる/畏れることはありません。どんどん書きましょう。コレは、ワタシ自身への命令でもあります。それを読んだ人の内部に、音楽の鳴るような文章を、その文章そのものが音楽になるような。コレを目指し、書きたいと思ったときに書くのです。音楽について「書く」ことは、とてもシンプルです。あなたの内部に芽生えた「何か」を、どうにか言語化しようとすればよいだけなのですから。
と、何だか最後は新興宗教が発行している機関誌のメッセージみたいな(笑) そーいう感じになってしまいましたが。まあ、所信表明みたいな感じでですね、受け取って頂ければと考えております。
それでは改めまして、本年も本サイトを宜しくお願いいたします。
※2013年1月8日追記: おかげさまで、多くの方にお読みいただき、まことにありがとうございます。と同時に、たくさんの避けられない/うれしい誤読が生まれているようなので、「後書」を書きました。こちらも参考にしてください。