『スラブ叙事詩』への長過ぎる印象: ミュシャ展について

ミュシャ展を鑑賞してきましたので, 簡単なレポートです. ミュシャ展は日本で何度も開催されているので, 日本で観られるのはそれほど珍しくない, という印象がありますが, 今回は「スラブ叙事詩」が来日する, ということで, これは是非とも鑑賞したい! ということで, 国立新美術館まで足を運びました.

目次

【スポンサーリンク】
スポンサーリンク

めっちゃ並ぶからな…

これ, 2017 年のミュシャ展の会期が終了したら, 全く意味ない内容をこれからちょっと書きますけど…, 何が, ていうと, めっちゃ並びます. 入場までに. それを一応, 事前情報として知っていましたので, 開館時間の 1 時間前には, 国立新美術館のある六本木に着くようにしまして. そんで, これはさらに余談なんですけど, 国立新美術館まで歩く道中, BARNEY’S NEWYORK のディスプレイに, 自分が本業で栽培・出荷しているグロリオサが! こういうふうに使われてるんですねー,

なんて感激しながら美術館に着いたんですけど, 9:10 分くらいですかね, 開館時間の 50 分前. すでに長蛇の列!!!!! まだ閉門しているのに!!!!!

で, 開場時間がちょっと前倒しになって, 開門して, チケット持ってなかったから買うために並んで, 買えたのが 9:30. だから, チケット買うまでに 15 分ほど並びました. 開門前に美術館に着いても, こういう感じですね… そっから, きっと展示室に入るまでまた並ぶだろうから, 美術館のショップで何かミュシャ関連の本でもあればそういうの買って待ち時間に読むかな, と思ったんですけど, ショップは, 通常の開館時間の 10:00 じゃないと開かないんですね. カフェとかも閉まってるから, 飲み物とかも, そう, 買えない. だから, 待ち時間と鑑賞時間含め, 一旦美術館内に入って, 展示室への列へ飲み物を持たずに, そして暇つぶしの何かを持たずに並ぶと, ほんーと, 鑑賞して終わるまでずーっと手持ち無沙汰なんです.

この辺, 自分は完全に計算を間違えまして, (ミュシャ関連ではないですけど, 美学関連の) 本とかを持ってきてたんですけど, ぜんぶロッカーに預けちゃったんですよね… 飲み物も持ってなくて…, で, そっから, また 30 分並んでですね, 展示室へ. なんやかんやで, ちゃんと, 本来の開館時間の 10:00 を, ちょい過ぎくらいには入れたんですけどね!

では! ということで! ここから展示の鑑賞の感想です. が, 正直,『スラヴ叙事詩』の鑑賞だけでかなり体力を削られて, それ以外の, 堺市のドイ・コレクションについては, (以前見たことがある, というのもあって) さらっと見た程度です. 要するに, 以下に記したのは,『スラヴ叙事詩』の感想, ていうことですね. それで,『スラヴ叙事詩』, あるいはミュシャについての詳細な「解説」は, ネット上にもたくさんあると思います. ですので, 以下は, 完全に主観的な, 憶測をふんだんに含んだ感想です. でも (?), 実際に鑑賞しながら書いていたので (?) けっこう長いです. あと, 「です・ます」調ではなく,「だ・である」調です (「だ・である」かどうかも怪しいですが!). では, 早速〜〜〜!

原故郷のスラブ民族

入ってすぐ『スラヴ叙事詩』の,  「原故郷のスラブ民族」! 要するに入って直ぐ『スラブ叙事詩』コーナー! デカい! 圧巻のスケール! 観た瞬間, 身震い. 本当に身震い. 正直, 美術展なんて行くの, 数年前に飽きていたし, 美術なんて興味ない, なんて日頃から言ってたりするんですが, 特にミュシャなんて, 日本で何度も特別展が開催されているから, いまさら, いくら「初来日の作品」とかあっても… なんて思ってたけど! 来てよかった! まずデカさで感動! スゴい! そしてこの展示の構成に工夫がされているな, ていう. ふつう, こういった特別展では, メインディッシュは後半 (たとえば, 同じ時期に開催されている「バベルの塔」展は, ブリューゲルの「バベルの塔」が最後に展示されている) なのだが, 冒頭にもってくる. これで目を惹かれない者はいないだろう!

画面下部, 右下で鑑賞者を観て怯える 2 人のスラブ人の身にまとっている服の色は白で, 画面の中で浮き出ていて, この絵画を観たときに, いちばんさきにぱっと目に入るだろう. 色彩的だけでなく, 鑑賞者の視線的にも, だ. 対して, 侵略的迫り来る他民族は, 黒! で, つまり不穏! (夜という場面の性質上) そして背景と溶け合っている(気付きにくい)! 神は 3 人いる. 彼らは3 人いる. 色彩的には, 青みがかり, 侵略者とは異なり, 色が浮かび上がっている. と, 同時に, うちの真ん中の神は視線を合わさない! 女性の神だけがこちらを観ている (『けものフレンズ』のかばんちゃんみたいだ). 神は関さない! スラブ民族と他民族の間で泰然自若!

この絵画で最も目立つよう配色された白は, 2 人のスラブ民族の衣服以外にも使用されている. それが星! 白い星! 白く輝く, 美しさとしての星は怯えるスラブ民族の衣装と同じ色だ!

星の配置はリアルだろうか?

夜は… 夜明けか?

冷静に見よう. 神の青は, 1〜3に共通する. スラブの白は, 1〜7の共通している. 1 では, 侵略者は, 茶黒い. 1 は全て画面が暗いので, 神は目立たず, 侵略者は不穏で, スラブ民族は, 無垢である

ルヤーナ島でのスヴァンヴィート祭

美しい白の衣装を身にまとったスラヴ民族たちの, 可憐な花の髪飾りに, ムハ性をみる. しかしこの絵画に描かれた人の数の多さよ!彼・彼女らはスラブ民族で, 一見非常に華やかである. しかし一方で, よく観ると, 虚ろな目をしていなくもな者も少なからずいる. そして, 燻んだ色使いのされている者もいる.
神々は, 力強く, 無表情に宙を浮いている. またも身震いをしてしまう!

スラヴ式典礼の導入

ここで, そろそろ鑑賞者は気付く. 憶測をし始める. ムハが『スラヴ叙事詩』で意図した色使いについて, この「スラブ式典礼の導入」で鑑賞者はあれこれと思い巡らし始めるのだ.
神々は, 薄い (?) 冷色系の色合いである. そのため, 画面に数多く描かれている民衆に比べて, 身体が大きく描かれているにも関わらず, 目立たない. 対して, この絵画では画面下部の, 白い衣服を身にまとったスラブ民族たち = 現実は, 身体のサイズは, 神々に比べ小さく描かれているが, しかし色合いが暖色系のため, 目立つ. これは,「原故郷のスラブ民族」,「ルヤーナ島でのスヴァンヴィート祭」にも共通する. このようにして, 写実性を確保しつつ, 現実と神話の区別と同居を, 色彩の工夫で表現しているのではないだろうか.

この絵画で驚くべきは, 人物以上に, 画面下部中央の植物の鮮やかさである! おそらくは月桂樹であると推測できる. 月桂樹が, 絵画の中央に配置されていることの意味は!?

ブルガリア皇帝シメオン 1 世

ここでは神々が描かれていない. つまり, 神話的要素が排除されている. そのため, というか, 神話的要素が排除されていることを表現するために人物描写の色彩が統一されていると推察される. 神話的要素は排除されたが, 描かれているのは, フィクションだという他のない, 誇張された・美化された (史実ではない) 史実である.

完全にこの絵画から神話を, 神を観ることができないかというと, そうではない. 神はーーー画面上部の絵画のなかの絵画で表されている (と思う).

ボヘミア王プシェミスル・オタカル 2 世

ここでも神話はない. 王家の話だ. 史実に忠実であるという妄想が完全なかたちで表現されている. 色彩は統一されている.

6. 東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝 ステファン・ドゥシャン スラヴ式典礼の導入

タイトルのセルビア皇帝が, 画面中央に小さく配置されている. その後ろに, 小さく妃もみえる. その手前の王ではない男性や, 乙女たちが, 鑑賞者を見ている. その数はとても多い. ということは, この絵画の主役は, あくまで民衆で, 王ではなく, 民衆を主役にすることで王を祝うことがテーマであることを強めている. 民衆が…, スラブの民がテーマなのだ.

民衆が手に持っている樹木は,「スラヴ式典礼の導入」出てくる樹木とおそらく同じ月桂樹である.

画面最も手前の男性の顔の色が. 暗いのはなぜだろうか? まさか, 鑑賞者の影か…? (笑)

クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ

絵画の, 手前の人物の顔の色が暗いのは, 中心に上方から光を (舞台照明のようなもの) を当てているからだ! (だから, 鑑賞者の影ではない (笑)). この絵画は縦長なので, そのことがはっきり分かる!

だから, 「東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝 ステファン・ドゥシャン」は, 中心の王にスポットライトが当てられている, が, 手前のスポットライトが当たっていない男性を大きく描くことで, 主役性をいくつかの要素へ分散させているのだ. だから,「原故郷のスラブ民族」, 「ルヤーナ島でのスヴァンヴィート祭」, 「スラヴ式典礼の導入」で神があまりはっきりとしない色彩で (くすんだかのような青で), 民衆が白ではっきり目立つのもその意味だ! 神は手前だが, 巨大だが, スポットライトは当たらない. スポットライトが当たるのはあくまで, ふつうの人々なのだ!

グルンヴァルトの戦いの後

敗北者 = ドイツ騎士団に光が当てられ, 勝者 = ポーランド騎士団が, ぼんやり, ぼやけている. したがって, 負けることがテーマだ. 勝軍の軍隊が, 画面左上にぼやけている. 勝利者の絵画上で扱いは雑で, 中心的とは言えない.

ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス氏

ここでの主役は, 説教者ではなく, 後ろを向いている (おそらく) 3 人の母娘である. 彼女らにスポットライトが当たっているからだ. 彼女らは, ヤン・フス支持者だろう. しかし鑑賞者に対しては背を向けている. これには何らかの意味があるだろう (しかしどういう意味かは分からない).

画面右のゾフィーもヤン・フス支持者だが, なんとも退屈そうな顔をしているように思えた. しかし彼女は, 不安そうにヤン・フスを見ているのかもしれない.

クジーシュキでの集会

旗は軍旗で, 白と赤は生と死を象徴するが, 白が目につく. これまでの作品と異なり, だれも鑑賞者を見ていない (絵画中の人物が鑑賞者を見ていないのは,「クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ」「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス氏」も同じだ).

「クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ」「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス氏」「クジーシュキでの集会」は, 「言葉の魔力」三部作ということなので, 目をそらすことで, 視覚的な力を薄めているのかもしれない…, いや, 7 は左下に, やや目立たない形で, 力強く鑑賞者へ眼差しを向ける女性がいた.

ヴィートコフ山の戦いの後

最も大きく描かれているのは, 手前の疲れ切った女性で, しかしくすんだ色をし, 目立たない. 視線も, 鑑賞者を避けている.

目を惹かれるのは画面左の, 祈りを捧げている男性 = 司祭だが, しかしよく見ると, 彼ではなく剣, 盾に光が当たっている. だから, 司祭は目立たない.

つまりこの絵画は, 戦いの終わりが表されている (画面右上部の, 色の剥がれのようなものは, 画家の意図か, それとも保存状態の悪さによるものか).

ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー

死者と生者の肌の色が鮮やかに, 同じ光の下で描き分けられている. 鮮やかに描き分けられた死者と生者の肌の色は, 「クジーシュキでの集会」旗の色と呼応するだろう.

「クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ」以降, 絵画中の人物は決して鑑賞者の方を向こうとしなかった, この絵画では, 中央の赤ん坊を抱いた母親がこちらを見ている. 赤ん坊の顔を手で伏せている. つまりそこに訴えがあると思う.

遠くに, まだ戦火が上がっているが, それは目立たない.

フス派の王, ボジェブラディとクンシュタートのイジー

これは室内なので, 理想的な光が差しているかどうかのコントロールが, 現実には考えにくいが, 明らかに, 光は教皇に当てられている.

この絵画では, 誰も鑑賞者を見ていない. 画面右下の少年は, 象徴的な本を手にしているが, しかし, 鑑賞者からはほとんどわざと目を逸らしている (この海外は難しい).

ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛

不穏な紅色 = 炎で彩られた絵画の中央に, 真っ黒な「何か」が, 前提知識なく見ると不安として描かれている.

この不安は, 前提知識のない場合, 決して何かは分からない. 分からないことを, 画家は意図しているはずだ.

この不安が, 直後の爆発の前兆としての煙であることを知ったとき, 鑑賞者の感覚はきっと, 全知識的な不安から, はっきり対象を定めた恐怖へと移行するだろう.

ふたたび, 絵画をよく観てみる. 恐ろしく細かく描写された人物が分かる. それらを全く無効にする, 残念な煙が, この絵画の主役なのだ

イヴァンツェの兄弟団学校

全体的な光のなかで, 前景左の老男・若い少年のみが色彩として暗い. 若い少年は鑑賞者を観ている(若い男性の服の質感!) ここでも, 暗いものを大きく, 明るいものを小さく描きことで, 主役を分散させるスキルがうかがえる

前景右の植物, その手前の石に刻まれたハートの形など, 細かいところにも意味がありそうだ (いや, 必ずある! 不明だけど)

背景の城ようの建物, 樹木などは, セオリー通りにぼやけている.

画面右には鳥が飛んでいる. 二羽. なんかこれ見つけたとき, なぜか身震いした

ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々

画面の中央に位置するのは, 小さなランプである!

ランプの背後に人物が 3 人いるのに気づく. 彼らが同じ方向へ視線を向けている. その先に, タイトルのコメンスキー!

タイトルのコメンスキーは, 画面右のややうえで, かすみかかっている.

嘆く人物たちのうちの 1 人が, 右下で, 画面から飛び出る形で, 白く目立っている. しかしそれとほぼ同じ場所に立つ男性は, また, かすんでいる.

聖アトス山

再び神のモチーフが, 今度はより緑がかった青で, 今度は人物たちの背後に蘇る! 光の先にモチーフは目立っては見つからない. ただ, 光を避けるように, 画面右下に, 老男を担ぐ若い男性が, 影的な色合いで描かれている.

中心には, 前提知識では理解できない, 謎の静物が置かれている.

神々のさらに上部には, 現実的な色彩のーーーマリアだろうか. しかしこの女性は, 絵画のなかの絵画として, 伝説よりも伝説として描かれている

スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い

中心には何もない! 男たちが儀式を行い, そこから何かが誕生するようなーーー, この絵画は, 光が, 地中から溢れている

左下に位置する琴を弾く女性は, 真中の地中から溢れる光によって, 逆光になっている. しかし彼女は大きく, 鑑賞者を観て, 印象的である

上部に淡く描かれているのは, 神だろうか (解説を読むと, 女神だった). 現実のモチーフとしては大きすぎるし, これまでの神のモチーフに比べてはあまりにも目立たない.「原故郷のスラブ民族」と対比的だ.「原故郷のスラブ民族」は闇において神が画面と同化していたが, これは光において神が画面と同化している

解説によれば, この作品は未完とのこと.

ロシアの農奴制廃止

「イヴァンツェの兄弟団学校」と同様に, 画面に特定のスポットライトは当てられていない. よく見ると, 左下の女性のみが, 不自然に浮き出て, 鑑賞者の視線を避けようとしている. 若干目立っている.

彼女の周りにある作物は何なのか. おそらく麦だろうけど, 穂がしっかり書き込まれていないので分からない.

ミュシャの絵画は, 民衆の女性の肌があまりにもきれいなので, 写実性を欠く. もっと荒れていないといけない.

この絵画のなかで最も大きいのは, 宮殿だ. が, 色彩はぼんやりとしていて, はっきりしない, 目立たない. これも主役を分散させる手法だろう. ロシアだと分かる. しかし目立たない. 目立つのは, 農民の女性である.

画面中央の男性もこちらを向いているようだ. 何かを呼びかけているように聞こえる. しかし, 顔が潰れて表情を読みにくく判然としない

スラブ民族の賛歌

これは… いままでの絵画の伏線を, 色彩で回収している! 神話時代の神の色 (「原故郷のスラブ民族」「ルヤーナ島でのスヴァンヴィート祭」「スラヴ式典礼の導入」) が再びこの絵画に現れている.

また, 「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛」のおぞましい朱色が, 侵略者の黒が描かれている.祝うスラブ人たちのもつ樹木は,「スラヴ式典礼の導入」や「東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝 ステファン・ドゥシャン」に出てきた. だからこれは典礼なのだ.

中央のたくましい青年の背後には, 見守るように, 淡く, キリストらしいモチーフ. 腹部の近くに, 何か光っているものを持っている司祭ふうの人物がいる (何かの始まりの象徴だろう) (中央の青年の左腕の下の黒い巨人は, 侵略者の神だろうか…?)

賛歌の中心には, いままでスラブ民族が身にまとっていた白い布が広げられ, 乙女が両手をあげて喜びを表現している.

現実的ではない, 白いモチーフは,「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛」と対になっているように思える.

画面中央少し下の女性が, こちらを観ているように思える. 視線ははっきりとはしない. しかし顔の色の光の具合ははっきりしている.

この絵画の光の中心は, 画面の中心である. 民衆である.

泣きそう.

感動した.

スラブ叙事詩は, 一貫して, 民衆が主役だった. 神々は, 大きく, しかし色彩によって目立たなさを強調され, また, 偉人たちは小さく描かれた. 民衆は光が当てられ, 大きくはないが, たくさん描かれることで, 主役性を獲得する. だって民衆. みんなだもの! そうやって, 画面上の主役が分散することで, 意味的には全てが主役になり, 民衆が主題になるのだ.

また, 冷静になって振り返って気づいた. スラヴ叙事詩の順番のドラマ性よ. 恐ろしく色彩豊かで幻想的な最後の「スラブ民族の賛歌」の前が, クライマックスの前が, 痛いほど凍てつく色彩の「ロシアの農奴制廃止」なのだ. そしてその前が, あまりにも現実的で退屈な色で農奴を描いた絵画の前が,「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」であって,「聖アトス山」なのだ. これは… 神話的な祝祭を目の前にしても, 決して民衆の重みを忘れてはいけない, という意味なのかもしれない.

スラヴ叙事詩以外の, ていうか, ミュシャ展全体への感想〜

ミュシャ展, 特にスラヴ叙事詩が最高なんでしたが, わたしが最高だと思っていることは, 以上の文章でお分かりいただけたかと思いますが, 撮影コーナーだけはいただけない… カシャカシャうるさい…

とか言いながら 1 枚.

で, 展示室から出たのは 13:40 頃. スラブ叙事詩以外は体力持たなくて, ほとんどちゃんと観なかった. だって前, 観たことあったものね. でも, 久しぶりに観た「生」のは最高でした. 身震いした. ほんと.

いやもう概ね満足ですよね.「飽きた」て思えるくらい, もっと長く観たかった. けど次の予定もあるからー. あと喉渇いたりもしたし, 気づいたら 4 時間近く展示室内にいたし, てことで.

とにかく,「スラブ叙事詩」は集中して観た! ちゃんと,「スラヴ叙事詩」については, 1 枚 1 枚メモを取りながら. そうすると, ちゃんと絵画同士の絵画としての関連が見えてきたりしまたね.

あと, 売店もめちゃくちゃ並びましたけど, しっかり図録もゲット. これをめくりながら本記事を書いています (笑) 特別展のカタログって, Amazon でも買えるんですね.『スラヴ叙事詩』の, 本記事のテキトーな印象的な感想より, しっかりした解説を読みたい方には, オススメします!



なんか, 自分はまだ, 絵画を鑑賞する楽しさを忘れていなかったのか〜, ていうのが分かりますね.

たまーにはね, 美術展ね, いいですね!


【スポンサーリンク】
スポンサーリンク

シェアする

フォローする

関連コンテンツとスポンサーリンク

【関連コンテンツとスポンサーリンク】



【スポンサーリンク】
スポンサーリンク