1月18日、突然訃報が飛び込んできた、A$AP Yams。
ネット上では死因に関するさまざまな憶測が飛び交っておりますが、わたしのみたところ、オフィシャルな情報はでていません。また、ドラッグのオーヴァードーズなのではないか、という説は、(もしかして建前かもしれませんが、)A$AP Ferg により否定されています。
こうしたゴシップ的な話題と同時に、追悼記事もまた、ネット上に数え切れないほどあげられています。本サイトでも、彼の築いたヒップホップ・グループ、A$AP Mob のこれまでの活動を簡単にではありますがふりかえることで、Yams への追悼の意を示ささせていただきました。
今回は、このエントリーではとりあげることのできなかった、Yams の魅力あふれる Yams の人物像について、米サイトの「COMPLEX」に投稿された記事の内容をかいつまんで参考にしながら、紹介します(※ 全訳ではありません)。
目次
Tumblr から神の耳へ: 天才、A$AP Yams 、その人物
また1人、若い才能が失われた。A$AP Yams、本名、Steven Rodrigues。彼は、友人や家族、多くのファン、支援者、そしてアンチを残していった。また同時に、彼の経験したビジネス・スキル、言葉、魅力、そして楽天的な人生観を残していった。
格闘技好き。Yams の人生観
A$AP Mob のリーダーとして知られている彼だが、次の発言からわかるとおり、格闘技好きでもあった。そしてこの発言は、彼の人生観も表していると言える。
興味の幅を広げるのをやめたり、子どもの頃に好きだったものを楽しむのをやめたりすると、とたんに人生が退屈になってしまう。だから俺は、死ぬまで格闘技を見続ける。
ヒップホップに流れるラテンの系譜。それを受け継ぐ Yams
Yams が亡くなった年齢は26歳。これは、Christopher “Big Punisher” Rios が心臓発作で亡くなった年齢より2歳も若い。
Yams と Big Punisher は2人ともラテン系。そして両者ともわずか数年、ほんとうに短い期間で、ヒップホップ・カルチャーに大きなインパクトを遺した。これは奇妙な運命といいたくなる。ラテン系は、ヒップホップの登場の早い時期から、ブレイクビーツ、ダンス、ラップ、そしてプロデュースにおいて、その歴史に大きく関わっている。Crazy Legs から Cypress Hill、Fat Joe、Big Pun など、ラテン系ヒップホップへの貢献は、枚挙に暇がない。
そして Yams。彼は驚くべき先見性とその耳で、ヒップホップにおけるラテン系の系譜を受け継いでいるといえる。
高校中退、REALNIGGATUMBLR の成功
Yams は高校を中退後、Diplomats Records で、プロデューサーのマネージャーや、ミックステープを売るなど、見習いとして働いた。しかしキャリアの本当のスタートは、いまは更新が止まっているブログ、「REALNIGGATUMBLR」だ。このブログで Yams は、さまざまな地域・時代から、ヒップホップの画像、楽曲、ビデオなどを集めていた。彼は、新しいアーティストの楽曲を紹介するだけではなく、90年代の知られざる名 R&B から選曲したミックスも投稿した。こうしたYams のアイデアは見事に的中し、REALNIGGATUMBLR は多くの読者を獲得する。
A$AP Rocky との出会い、快進撃の始まり
2011年4月、彼は「Purple Swag」という楽曲を投稿した。
これは、Yams の仲間であった A$AP Rocky によるもので、彼らは2008年からいっしょに活動していた。この楽曲は大きな反響を得た。
2013年のインタビューで、Yams は次のように語っている。
あるとき、多くの人が、本当に自分のブログをチェックしてくれてるんだな、てことがわかった。新しく話題になっているアーティストは誰なのかとか、最高のヤツ、ヤバいヤツは誰なのかとか。俺のブログに来れば、いままで聴いたことのない音楽に出会えるってことを、読者は知っているんだ。「Purple Swag」は読者をもっと増やすために投稿したんだ。すごく反応がよくて驚いたよ。
インターネットとストリートの間で
Yams の耳は、常にストリートへ向けられ、それが鋭いビジネス感覚をへつながったといえる。そして、Rocky というルーク・スカイウォーカーのヨーダになった。Yams は Rocky といっしょに休む間もなく働き、さまざまな影響を受けたユニークなサウンドを作った。Yams の耳がなければ、A$AP Mob はここ最近4年間にみられるような路線を築き上げることはできなかっただろう。Yams のマーケティング力にも目を見張るものがあった。そのマーケティング力により、A$AP Mob はストリートとインターネットの間の分野で、確固たる地位を獲得し、彼らのレーベル、 A$AP Worldwide は、大手レーベルの Polo Grounds との契約にいたった。Rocky のデビュー・アルバム『LONG. LIVE. A$AP』は、リリース前に音源が流出してしまったにも関わらず、ビルボードで1位を獲得した。
Rocky につづく A$AP Ferg のヒットは、A$AP Mob の成功がマグレではないことを証明しているかのようだった。Ferg のデビューアルバム、『Trap Lords』も、さまざまな地域からの影響を聴きとることができる。
『Trap Lords』はビルボードでトップ10入りを果たし、シングル「Shabba」はトップ40にランクした。
新人のサポート
Yams はただ、彼のクルーにだけ目を向けているわけではかった。彼は Bodega Bamz、Aston Matthews、Joey Fatts、Vince Staples のような、駆け出しの新人のサポートも始めた。
彼は新時代のIrv Gotti であり、Dame Dash であり、 Russell Simmons であり、Eazy E だったのだ。
ドラッグへの依存、更正
A$AP Mob が順風満帆の波に乗っていた頃、Yams は薬物依存と闘っていた。ご多分にもれず、Yams もドラッグをたしなんでいたが、次第に深刻な依存となった。自らの意志で更生施設に入り、2014年の夏には回復した。回復後は彼は、ビデオセットでのチルや、クラブ通いをしようとしなくなった。以前の薬物依存していた自分に引き戻そうとする場所をさけようとしていたのかもしれない。
「Multiply」の画期的なプロモーション
不運なことに、復帰は長く続かなかった。「Multiplay」のビデオが、Yams の才能を最後に感じとれる作品になってしまった。
Rocky の新しいプロジェクトからは、Yams の特徴が全面的にみてとれる。まず、ビデオのプロモーションのために、リリースまでのカウントダウンが刻まれる簡易なウェブサイトが作られた。公開された「Multiply」のビデオは、これこそ A$AP だ、という出来で、メンバーの姿を鮮烈に映し出した。しかしビデオは半分が過ぎたところで、突然シーンが切り替わる。Yung Gleesh から、耳を切り裂くような「Pretty Flacko Ⅱ」のビートへと。このショート・ヴァージョンにより、ファンはフル・バージョンへの期待を嫌が応にも高めることになった。のちに、前述の簡易なウェブサイトに、A$AP Worldwide の Soundcloud のが埋め込まれ、フル・ヴァージョンが公開された。天才的な仕事だった。そして旅立ってしまった。
Yams は誰とも仲良くなれるヤツだった。Twitter や Tumblr をみれば、彼がアーティストやジャーナリスト、そしてファンから、同じように愛されていたことがわかる。かれはいつもユーモアに富んだ発言をネット上で公開することで、このような良好な関係を築き、保っていた。このことが結果的に、彼は A$AP Mob を最も影響力のあるラップ・ムーブメントのうちの1つにしたてあげたのだ。A$AP Mob はそのファッション、サウンドのために、多くのアンチも集めた。しかし、影響を受けた人物に敬意を表する以上に、よりヒップホップであるとは何なんだろうか? 業界に媚びずに成功する以上に、よりヒップホップであるとは何なのだろうか? A$AP Mob の音楽のなかに、そのツイートや発言のなかに、Yams は生きつづけるだろう。
参考サイト