〈せーのっ!〉でどこへ「飛びだす」のか —アニメ『ゆゆ式』OPの「力強さ」について—


「三上小又原作のマンガをアニメ化した『ゆゆ式』。本作は、いわゆる「日常系」の系譜にあるが、いわゆる「日常系」の本質を剥き出しにしてしまった = 女子高生の会話のみで構成されてしまったが故に、既存の「日常系」とは全く異なる雰囲気をもつアニメだ。アニメとしての『ゆゆ式』の全体像については稿を改めるとするが、本稿では、OP 曲である〈せーのっ!〉の全体を貫く「力強さ」。この力強さが何処に由来するのかを考察したい。

さて、〈せーのっ!〉の力強さだが、既にアニメ放映中に、Twitter などで #津田美波さんの力強い歌声 といったタグが多数見受けられたことから、「〈せーのっ!〉は「力強い」」というイメージは、『ゆゆ式』ファンの間で共通理解であることに疑いない。確かに、津田美波さんの歌声は力強く聴こえ、NAVER まとめられるほどである。しかし本稿では、津田美波さんの力強い歌声の分析ではなく、ただしもちろん、それと関係しながら、楽曲構造に着眼し、〈せーのっ!〉における力強さを分析することとする。

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1.〈せーのっ!〉の全体像

以下の考察をお読みいただく前に、上記の動画をしっかりお聴きいただきたい。先ず、〈せーのっ!〉の全体像からみてみよう。BPM ≒ 174 で、調は A メロ・B メロが F# メジャーを主体とし、サビで G メジャーへと移調する(さらに C メロ やラストのコーダで異なる調が展開されるが、ここでは踏み込まない)。アレンジは、ピアノ、ストリングス、アコースティックギターの印象的な、シンプルでさわやかなポップス風といったところだろう。ドラムは手数が多く、「#津田美波さんの力強い歌声」を支えているようだ。しかしもちろん、これだけでは「力強さ」を見出すことはできない。〈せーのっ!〉の「力強さ」の本質は、もっと別のところ、メロディーにあるのである。

2.〈せーのっ!〉のメロディー

本稿では、論者の採譜能力の限界もあり、〈せーのっ!〉のメロディー全てをここに記すことは出来ない。また、web 編収能力の不足のため、「楽譜」という形で提示できなかったことを、ご了承いただきたい。以下では、メロディーを小文字のアルファベットでメロディー上の音節に分けた歌詞の横に、コードを大文字のアルファベットで小節線( | ) の横に記載するこことする。 なお、コードはについては以下のサイトを全面的に参考にした。

ではさっそく、〈せーのっ!〉のメロディをみていこう。ここでは特にサビに注目した。というのも、確かに「#津田美波さんの力強い歌声」が発揮されるのはBメロの冒頭からではあるが、〈せーのっ!〉の「力強さ」が最も分かりやすくメロディに現れているのはサビの部分だからだと論者は考えるからである。さて、サビのメロディは以下の通りである。

【サビのメロディ】あ ( d ) し ( e ) た ( g ) を ( f# ) のぼっ ( g ) て ( d ) そ ( d ) ら ( c ) を ( b ) み ( g ) あ ( b ) げ ( a ) た ( g ) ら ( g )

前述の通り、調は G メジャー であり、調の音から外れず、かつ、すべての音階をバランスよく配置したメロディだということが分かるだろう。「て ( d )」から「そ ( d )」へのオクターブの飛躍が、力強く聴こえるかも知れないし、実際そう聴こえるのであるが、しかしそれは「力強さ」の本質ではない。「力強さ」の本質は、コードとの関係をみることで徐々にはっきりしてくるだろう。

では続いて、サビのコードをみてみよう。

【サビのコード】| G / D あ C し | D たを Em のぼって | G そ C らを | D みあげた Em ら |

1/2小節ずつのコードチェンジが、表拍のスネアにとともに刻みよく繰り返され、いまにもまさに「飛び出しそうな」疾走感を演出しているように聴こえるだろう。しかしそれはリズムであり、ここでは問題としない。ここで問題となるのは、正にサビの始まる最初のコード「G」である。この最初のコード、「G」は、G メジャーの主和音であり、コード機能上、まさに「始まり」を告げるコードなのであるが、その際のメロディー音をみてみると、「 d 」となっている。つまり G メジャー上では 5度の音である。しかし、コード「G」はまた、D メジャー = d から始まるメジャースケールのコード(サブドミナント)でもあり、この第1音、この部分、この瞬間だけでは G メジャーなのか D メジャーなのかを判別することはできない。さらに、G の次のコードは C であり、そこで G メジャーであることは直ぐに分かるのだが、聴覚上は、わずか1秒ほどのコードチェンジであり、さらに C の次に直ぐに(これも1秒ほどで)D へと移行するため、G → D というコード進行、つまり、D メジャーにおける「Ⅳ → Ⅰ」という進行と捉えてしまっても仕方がない。つまり〈せーのっ!〉のサビは、 d を1度とするメロディーのように聴こえてしまう。実際、D メジャー と G メジャーは c# か c かの違いしかない、互換性の高い調ではある。

では、 d を1度とするメロディーに聴こえた場合に、どのような音階が使われているように聴こえるのか。D メジャースケールは、

  • d e d e f# g a b c# d

であるが、〈せーのっ!〉のサビで使われているのは、

  • d e f# g a b c d

という音階である。ここで、前述の通り、c# と c という違いが一目で分かるだろう。c# は D メジャー上の7度 = 導音であるが、それが半音下げられ c となっているのである。そして、周知の通り、メジャー・スケールの7度を半音下げたスケールは、「ミクソリディアン」である。このミクソリディアンは、

「明快・熱烈・感動を表現する旋法、喜悦にみちた飛翔、 熱狂的な飛躍、凱歌にふさわしい躍動的なものを表現しうる」

「完全で申し分のない喜びの旋法、 要するに、充満、充全の旋法」

(出典: MAB音楽資料室:教会旋法:各旋報の特色 )

だと言われている。このように、ミクソリディアンのように「聴こえる」メロディー、いや、もっと大胆に言えば、〈せーのっ!〉のサビは G メジャーではなく D ミクソリディアンとして解釈されるべきメロディーであり、このメロディーこそ、〈せーのっ!〉の「力強さ」の本質、「#津田美波さんの力強い歌声」を支えている「喜悦に満ちた飛翔」=「「せーのっ! で飛び出し」なのである。

3.〈せーのっ!〉でどこへ「飛びだす」のか

しかし問題は、「なぜミクソリディアンが使われたのか」「なぜ「飛びだ」さなければならないのか」、もっと言えば、ミクソリディアンが使用された楽曲はそれこそ数えきれないほどあるが、「なぜ〈せーのっ!〉だけがこれほどまでに「喜悦に満ちた飛翔」、力強さをもっているのか」この点である。それは、『ゆゆ式』という作品自体が、ミクソリディアンと強い親和性をもっているからである。以下ではこの点について考察していこう。

ミクソリディアンの特色は、7度を半音下げることにある。この7度は導音と呼ばれ、次の1度 = 主音へと進む役割をもっているのだが、それが半音下げられるとなると、7度は導音の役割を果たせなくなる。主音へと進む役割ではなくなるのである。つまり、この導音の役割を失った7度と主音の間に、或る種の「飛び越し」があると言うのは本稿でも繰り返し述べてきた。この「飛び越し」の効果により、「主音」もまた「主音」ではなくなる。「主音」に超越性が与えられることとなると言っても過言ではないだろう。

では、『ゆゆ式』の作品構造、特に主役3人の関係性をみてみることとする。3人の関係性の特徴を、最も端的に読み取ることの出来るのが、アニメ第3話だろう。夏休み、縁が家族と一緒に旅行へ出かけているときの、ゆずこと唯との会話である。ゆずこと唯は、縁が不在でありながら、しかし話題の中心を常に縁に置く。そして、この会話の最後に注目したい。

ゆずこ「まあそうなのかも知んないけどさー。 私の世界の真ん中は唯ちゃんなんですけどね?」 

このセリフは何を意味しているのか。ゆずこにとって、世界の中心は「私」ではなく、目の前の「あなた」なのである。しかもこの場合の「あなた」は、セリフからも分かる通り、「私」に対しての「あなた」であるような、「私」を必要とするようなものではなく、そもそも、それ自体で存立しているような(即自に対する)「即汝」のような「あなた」だ。「私がいて、あなたがいる」ではなく、剥き出しの「あなたがいる」なのである。つまり、主体の根拠、いや、主体そのものが「あなた」なのだ。

なお、注意しなければならないのは、この「即汝」としての「あなた」が、「他者」一般でないということだろう。他者と言った場合それは、「あなた」= 2人称のみではなく、3人称 =「誰か」も含まれてしまうが、「即汝」としての「あなた」は、3人称は含まれない。

この「即汝」という主体そのものとしての「あなた」という関係性は、『ゆゆ式』を読めば、ゆずこから唯へだけで向けられたようなものではなく、3人がそれぞれ「あなた」を中心としているということが分かるだろう。このゆずこのセリフの場面だけをとっても、そもそもの話題の中心 = 主体は不在である「縁」である。この場面の「縁」は、不在でありながら主体であるところの「あなた」なのである。

そして、『ゆゆ式』の主役3人における「即汝」という関係性が、ミクソリディアンと強い親和性をもっている、いや、ミクソリディアンそのものであることが、ここにきてあきらかになってきたはずだ。ミクソリディアンの特徴を思い出してほしい。ミクソリディアンにおいては、導音が半音下げられることにより、導音としての役割を失い、スケールにおける主音 = 主体は導音にとっての飛びださなければならない「彼方」=「あなた」となってしまう。つまり、ミクソリディアンにおいて主体は「あなた」なのである。繰り返し述べてきた通り、『ゆゆ式』においても、主役3人の関係性である「即汝」という主体の在り方から、主体は「貴方」=「あなた」であることが分かる。『ゆゆ式』とミクソリディアンは、「あなた(貴方 = 彼方)」という強力な共通項をもっており、以上のように考えれば、『ゆゆ式』はそもそもミクソリディアンであると言っても過言ではない。〈せーのっ!〉のあの力強いメロディーは、単なる偶然の産物ではなく、そもそもミクソリディアンで書かなければいけなかった、必然性をもっている。〈せーのっ!〉は、事実的な作品の成立事情は別にして、作曲者が作ったのではなく、『ゆゆ式』によって、ゆずこ・唯・縁の3人によって「作られた」楽曲なのだ。

そして、そのメロディーを歌う #津田美波さんの力強い歌声が、力強さ以外のなにものでもないというのも、以上のことから明白になるだろう。

〈せーのっ!〉で「飛びだ」す先にあるのは、主体としての「あなた」なのだ」みたいなことを思いついて書いてみたんですけど、なおこのレビューの書き方については、「南ことり、すなわち神の存在証明 —μ’s〈僕らは今のなかで〉を中心に—」と同じなのでお察しくださいな〜んつってつっちゃった♪

あ、ちなみに、こういうまとめとかもしてみました。

あとあと、rmx もつくりました。

文章はどうでもいいので(笑)、rmx、聴いてください!


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コメント

  1. ナナクマ より:

    めっちゃ首を縦に振りながら拝謁しました!
    読んだあとに曲を聴き返して耳から鱗が落ちました。
    文学にいうテクスト論のような解釈が、音楽理論と絡めて語られてるのが、フェチのようでもありながら慧眼である気がします。
    とても面白かったのでこれから他の記事も読んでみようと思います!