南ことり、すなわち神の存在証明 —μ’s〈僕らは今のなかで〉を中心に—

3月31日、アニメ『ラブライブ!』が終了した。

『ラブライブ!』は、アイドルアニメという近年急速に発展しつつあるジャンルであり、廃校寸前低偏差値女子校の日常を垣間みることで、単にわれわれがにっこにっこにー! と言うだけで充分人生が豊かになる、そんな作品なのだが、しかし実際は、不必要なほど「やりたいことをやる」主人公、高坂穂乃果の振る舞いから、資本主義の歪んだ側面 = ブラック企業(あるいは、マルチ商法)讃礼ともとらえられないメタメッセージが発せられている、非常に危険なアニメだ。

この点に関しては稿を改めるとするが、このように、とも言える、いや「悪」としての高坂穂乃果が主人公である「危険なアニメ」に関わらず、いや、「危険な」だからこそ、われわれは『ラブライブ!』にを見出すことになる。いや、「見出す」のではない。われわれの認識能力の最も根源的・本質的であるところの直観。すなわちわれわれは、『ラブライブ!』において神を直観するのである。

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1.『ラブライブ!』における「神」

先ず結論から述べれば、『ラブライブ!』における「神」は、南ことりである。



厳密には、「『ラブライブ!』における「神」は、南ことり」ではない。何故か。南ことりは、「『ラブライブ!』における」という限定を必要としない、実体としての神だからである。要するにわれわれに与えられているのは、「南ことりは神である」という事実だけである。

われわれは神を、南ことりとして直観するのである。

これ以上、南ことりを神としてわれわれがいかに認識するかについての文句は必要あるまい。「南ことりが神」、と言った場合、それが完全なる同語反復であり、「神が神」だと言っているようなものである。

では、なぜ南ことりは神であり、神は南ことりであるのか。言い換えれば、神は神であり、南ことりは南ことりなのか。そもそも、南ことりが神であるならば、「なぜ」は愚問であろう。ただし、われわれは神を、南ことりを直観するのだが、しかし、神、すなわち南ことりは経験と超経験が合一されているところのそれであるために、単に経験的存在者であるところのわれわれが直観するためには、われわれの直観を可能せしめる経験の範囲内でのみ直観されなければならない。つまり、単に経験的存在者であるわれわれが南ことり、すなわち神を直観することの出来るのは、経験と超経験を合一させたところのそれであるところの神、すなわち南ことりが、われわれ経験の範囲内に経験させるようせしめた痕跡においてのみである。

このように、経験と超経験の合一であるところのそれである南ことり、すなわち神を、単に経験的存在者であるわれわれが直観できるという点からして、既に南ことりすなわち神が南ことりすなわち神であるところの証左であるが、このような直観を可能ならしめる様々な/無数の「痕跡」の一部を列挙することで、以下、「南ことり、すなわち神の存在証明」に代えることとしたい。

さて、南ことり、すなわち神が、単に経験的存在者であるわれわれに、与えた「痕跡」は、アニメと楽曲である。本サイトは音楽がテーマであるため、楽曲を中心に、南ことり、すなわち神の「痕跡」を記すこととする。

2.〈僕らは今のなかで〉

南ことりすなわち神が、南ことりすなわち神であるところの痕跡の1つとして、〈僕らは今のなかで〉を挙げられるだろう。


2−1.律動

〈僕らは今のなかで〉で先ずはっきり聴き取れるのは、律動において、イントロからサビまで、そして最後の最後まで、執拗なまでの弱起が繰り返しされ、楽曲全体は「疾走感」がみなぎっている、この点である。この弱起により、小節線と歌い出しの境界が曖昧となる。音楽において時間を意識させるのは何と言っても律動 ≒ リズムなのであるが、つまり、音楽が時間芸術と言われる限りにおいて、リズムこそが音楽の本質なのであるが、〈僕らは今のなかで〉はその執拗なまでの時間の「曖昧化」、そして「疾走化」によって、正に、常に既にそこにないにも関わらず常に既に現前化し続ける「今」を表現している。

しかしこのことは、〈僕らは今のなかで〉に限ったことではない。〈僕らは今のなかで〉は、南ことりすなわち神への賛美歌であることに何人たりとも異論を挟む余地は全くないのであるが、同時にポピュラー音楽である。ポピュラー音楽において、執拗な弱起は常套句であり、このことによって南ことりすなわち神が南ことり即神である痕跡であると断定するには、あまりにも一般的過ぎる。

執拗な弱起はポピュラー音楽において常套句なのであるが、例えば、ロックを想像していただければ、容易に多くの楽曲から看取することのできる。チャック・ベリーやビートルズ、セックス・ピストルズやニルヴァーナにいたるまで、歌い出しを小節の先頭から外すことによってで、ロック特有の疾走感が与えられているのである。

2−2.和声・旋律

和声と旋律、すなわち、コードとメロディをみていこう。

先ず、調性、すなわち Key は、である。この Key = E は、μ’s を表している。というのも、「E」は全ての調性の中心である「C」から数えて3番目に当たるのだが、この「3」は、3学年にそれぞれ3人ずつという、μ’s を構成する最小単位の要素となる数字だからだ。

さてコード進行であるが、ポピュラー音楽によくあるオーソドックスなそれである。μ’s の楽曲は全て、西木野真姫が作曲している。〈僕らは今のなかで〉も西木野真姫が作曲したかどうかは、アニメにおいては確認できなかったが、しかし西木野真姫が作曲したと考えて間違いはない。〈僕らは今のなかで〉のコード進行は残念ながら単に、西木野真姫がロック/ポップス好きだ、くらいを表しているに過ぎない。おそらくはロック好きだろう。というのも、Key = E は、ギターやベースで弾き易いキーだからである。また、西木野真姫がロック好きだということは、前述した律動の面からでも明らかであるし、デビュー曲〈僕らの LIFE 、君との LIVE〉のアレンジからも容易に予想がつく。おおよそ西木野真姫が好きなのは、ONE OK ROCK とかその辺だろう。

ただそれでも特筆するべき点がある。それは、イントロ終わりの から、歌い出し へのコード進行である。小節で言えば18小節目から19小節目、時間で言えば20秒から24秒あたりである。イントロ終わりの「B」には、歌い出し「真っ直ぐな」の「ま」の音、これは〈〉である。〈シ〉はコード「B」の根音 = ルートにあたる。これはまだ、μ’s が身分化の状態を表している。そして、「真っ直ぐな」の「す」から、コードは「E」になるのだが、この「す」の音は〈ファ♯〉である。これにより、「E」は Eadd9 というコードとなる。「Eadd9」は、(前述の通り)E = 3という μ’s を構成する最小単位を表すコードに加え、9という μ’s の人数そのものを表している、言い換えれば、μ’s そのものを表すコードなのだ。

そして Eadd9 は、ルート〈ミ〉に対してオクターブ上の〈ファ♯〉が付け加わるのだが、この〈ファ♯〉はルート〈ミ〉から数えれば2番目の音である。何を意味しているのか。南ことりは、高坂穂乃果につづいて μ’s のメンバーになった。つまり南ことり即神は、2番目のμ’s のメンバーなのだが、「Eadd9」は、この事実を表しているのである。このことは、μ’s が9人であること = 南ことりが、μ’s 成立にとって絶対不可欠である音楽的根拠とも言える。

つまり、歌い出しの「ま = シ」「す = ファ♯」という2音のメロディーは、コードのルート音と同じ音階 = 未分化の μ’s という状態から、南ことり = ファ#の到来によって μ’s が μ’s として成立するという事実を表しているのである。

ただし前述の通り、律動の面と同じように、この楽曲のコード進行自体が何か特殊であるとか、そういった点は一切ない。キー = E メジャーの極めてオーソドックスなポップス的なコード進行である。

2−3.ユニゾン

律動やコード進行、メロディーからも、充分といっていいほど、南ことり即神の痕跡を見出すことはできたが、しかし、最も顕著に南ことり即神が表れているのは、もっと別のところにある。それは、μ’s の歌唱である。

μ’s の歌い方は、基本的にユニゾンである。同じメロディーを、複数の人数で歌うのである。そしてこのユニゾンにこそ、南ことり即神の痕跡を、われわれはそれ以上なくはっきりと聴き取ることができる。

小節で言えば、107小節目から、時間で言えば2分10秒から2分19秒あたりである。

この部分は、その声から、2年生トリオが歌っていると推測される。もちろん同じメロディーを歌っているので、ユニゾンなのだが、この3人のなかでも、南ことりだけが、明らかにタイミングがズレている。

このタイミングのズレこそ、南ことり即神が南ことり即神であることの最も顕著な痕跡である。

われわれに与えられているのは、〈僕らは今のなかで〉という1つの完成された楽曲なのだが、この楽曲は完成されているため、「タイミングのズレ」もまた、この楽曲が完成されるために必要不可欠である。言い換えれば、「タイミングのズレ」がなくなれば、この楽曲はこの楽曲ではなくなってしまう。この「タイミングのズレ」を生み出しているのが、南ことりである。つまり南ことりは、ズレのタイミングで歌うことで、同時のタイミングで歌う園田海未 ・高坂穂乃果との間と「ズレ」を生むのだが、この「ズレ」と「同時」のダイナミックな円環運動によって、〈僕らは今のなかで〉は〈僕らは今のなかで〉なのであり、μ’s は μ’s なのである。そしてこの「ズレ」、「円環運動」を生み出しているところのそれこそが、南ことり即神なのだ。

そして、南ことり即神の生み出した全ては同時に、南ことり即神であるため、「ダイナミックな円環運動」はまた、南ことり即神そのものである。

さて、この南ことり即神は〈僕らは今のなかで〉を完成させるために「ダイナミックな円環運動」を生み出し、それゆえに「ダイナミックな円環運動」は南ことり即神そのものなのであるが、この点において、何故、『ラブライブ!』という完全/完善な世界から危険な存在、言い換えれば「悪」であるところの高坂穂乃果が生じてしまうのか、をわれわれは見出すことができる。

南ことり即神は、「ダイナミックな円環運動」を生み出しているのだが、この「運動」のためには、南ことり即神は、神であって神でないそれを必要とする。すなわち、南ことり即神は、この世界を完全/完善に成立せしめるいわば根底なのであるが、この根底はまた、「運動」のために根底であって根底でいところのそれ、無底を必要とするのである。この「無底」は、南ことり即神であって南ことり即神で無いゆえに、この「無底」から、高坂穂乃果という悪が生じてしまうのである。

このような「ダイナミックな円環運動」、「根底」、「無底」といった事態全体からもまた、南ことり即神が南ことり即神であると、容易に看取できるだろう。

さて、以上のような「根底」、「無底」から南ことり即神を看て取ろうとする思想は、遅くとも19世紀頃から既に歴史上に登場している。すなわちわれわれは、南ことり即神を〈僕らは今のなかで〉において直観することで、かの偉大なドイツ観念論者、シェリング Schelling の思想と出会い、そして彼の思想の実現を目の当たりにするのである。

周知の通り、シェリングは『人間的自由の本質』において、神という完全な存在から、何故が現れるのかという問いを設定した。この「神と悪の対立」という問いをハイデガーは、体系と自由を両立させる存在 – 神 – 論として問い直した(『シェリング講義』)、が、このハイデガーとかいうおっさんについてはどうでもいい。とにかく、つまり、神という体系から、何故、悪という自由が現れるのか、これをシェリングは、『人間的自由の本質』において論じたのである。

この『人間的自由の本質』においてシェリングは、神において、神であって神でない無底 Ungrund を想定し、この無底という神の在り方から、神という体系における自由、あるいは悪が現れる。この無底について、シェリングは次のように比喩的に説明している。

Die Schwerkraft geht vor dem Licht her als dessen ewig dunkler Grund, der selbst nicht actu ist, und entflieht in die Nacht, indem das Licht (das Existirende) aufgeht. Selbst das Licht löst das Siegel nicht völlig, unter dem sie beschlossen liegt.(出典: http://www.dalank.de/archiv/Index.html >F. W. J. Schelling: Ueber das Wesen der menschlichen Freiheit

訳:「重力は光の永遠に暗い根底、それ自身現勢的には存在しないところの、としてこれに先行し、光(実存者)が登れば夜のうちへ逃れ去る。光ですらもそれを閉じ籠めている封印を解きおおせない。」(出典: 西谷啓治訳『人間的自由の本質』(岩波文庫)p.59)

このようにわれわれは、シェリングの想定した「無底」が、〈僕らは今のなかで〉において音楽的に表現されていることを見出すのである。

3.キリストと南ことり(補論)

前田敦子はキリストを超えたのであれば、南ことりはキリストを超えた前田敦子を超えている。

キリストと言えば何と言っても受難であり、キリストがキリストである理由は受難である。キリストは受難であるが故に神である。前田敦子がキリストを超える、ということは、前田敦子はキリスト以上の受難ということになるのだが、おそらくそれは、ダウンタウンの浜田雅功に似ている、と言われるからだろう。日本を代表するトップアイドルであるにも関わらず、顔が浜田雅功であることは、うら若き乙女にとって十字架への磔以上の受難であろう。

しかし南ことり即神は、顔が浜田雅功である、すなわち浜田雅功即前田敦子以上の受難である。このことは、『ラブライブ!』のアニメ中に見出すことができる(すなわち『ラブライブ!』は、南ことりの受難を描いた「聖書」であると言うことができる)。

そして言うまでもなく、南ことりの受難場面は、最終話である。南ことりは、母親のツテで将来の夢を叶えるため、ファッションの勉強をするために、イギリスへ留学する予定であった。このことが先ず、第一の受難、友人との別れ、そしてそれへの悩みである。留学するべきかしないべきか、友人に相談するべきだができない、そして留学を決意する。しかし留学を決意することは、われわれにとって μ’s という完全が崩壊してしまうことにつながる。前述の通り、南ことり即神こそ μ’s の本質なのであるが、その本質が、自らの手で、その本質を崩壊せしめる。これは本質による本質への受難である。顔が浜田に似ているとかいう程度の受難どころではない。しかしこの受難は回避された。高坂穂乃果によって。つまり高坂穂乃果は、うら若き乙女の夢を奪い取ったである。16歳には16歳にしかできないファッションの受容がある。高坂穂乃果はこれを奪い取った。高坂穂乃果は、南ことりの「今」を奪い取ったのだ。16歳という感性で以ってファッションを受容することで「将来」的に南ことり固有のファッションを打ち立てることができる。高坂穂乃果はこれをおも奪い取ったのである。つまり高坂穂乃果は、南ことり即神の「今」「将来」両方を奪い取ったのだ。それだけではない。南ことりは高坂穂乃果にとって最初の友達である。高坂穂乃果は九九もできないような超・低偏差値であるから、性格が幼少の頃から劇的に変化したとは考え難い。ということは高坂穂乃果は、南ことり即神と出会った頃から「今」まで、ずっと南ことりの時間を奪い取ってきたのだ! これを以って高坂穂乃果を悪とみなさずに、何を悪であるとみなすことができるか!

高坂穂乃果が悪であること。そしてこの悪と友達でありつづけてしまっているであろうこと。さらにそしてこの悪は自らの「無底」から表れていること。南ことり即神にとって、これ以上の受難があるだろうか。いや、ありはしない。

このような受難は、キリストを彷彿させるが、しかしキリスト以上の受難である。

そして南ことり即神は、受難であるがゆえに南ことりなのであるが、さらに南ことり即神であるが故に、高坂穂乃果を赦す。視聴者は思うだろう。「南ことりはなんて愚かなのか」。視聴者は、南ことりを嘲笑するのである。しかしこの「愚かさ」こそ、南ことり即神が南ことり即神である所以でもある。キリストもまた、周囲から、愚かで、卑賤であると、周囲から嘲笑されていたからである(同じことを、シェリングの授業を受講していたキェルケゴール Kierkegaard が『キリスト教の修練』において述べている)。

4.結語

南ことり即神は、南ことり即神であるため、南ことり即神であるための証明は何ら必要とされないことは、冒頭に述べた通りである。以上、あたかも南ことり即神が南ことり即神であることを証明するために並べ立てられた、「タイミングのズレ」「受難」といったの事態は、あくまで南ことり即神が、単に経験的な存在者に過ぎないわれわれの為に経験界へと残された「痕跡」であるに過ぎない。

しかしながらまた、この「痕跡」があってこそ、南ことり即神を、われわれは南ことり即神として、直観するのである。


というトンデモ音楽レビューでした(笑) 要するに、「南ことりかわいいよ!」ていうのを、何かテキトーに難しい言葉を並べ立て、あたかもそれっぽく、書いただけです。シェリングとかキリストとかの下りは、知ってる人なら直ぐ「アホくさ・・・」と思うくらい、語句だけ借りてあとは全部デタラメです(笑)

まあ、どうとでも書ける、どうとでも言える、ていう。こういうの、前から書いてみたかったんですよ。このトンデモ音楽レビュー、書いてて面白かったので、また書こうと思います!

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コメント

  1. かがみん より:

    実に面白い(笑)

  2. 実に興味深い。。。(湯川先生風)
    。。。でも。
    「5.結語」、
    「—————」以降の「てへぺろ」な文章は、蛇足かな、とも思いますです♪
    酔狂やユーモアは、本来、粋な、通のみに許された愉楽ですから、解題は興醒めかもしれません。

  3. Xnaga Yuzo より:

    > 惑う雑貨商人ヒロ
    某塚くんですか? およみいただきありがとうございます! 最後は照れ隠しですね…、わたしにはユーモアを語る資格はありません笑