オーケストラにおける指揮者の役割とは何か。と、たまに疑問に思うことがあります。
指揮者は、音を出しません。演奏をしません。音楽が音現象への昇華された意味付けであるとすれば、その音現象の発生源である演奏者こそが、音楽会における主役と言えるかもしれません(本来であれば、演奏会での主役を一者に求めることはできません)。
そうであるならそもそも・・・、指揮者はオーケストラに必要なのでしょうか。もちろん現体制において指揮者のいないオーケストラなどというものが、社会通俗的に マ ジ メ なオーケストラとして捉えられるとは考えにくいでしょう。ただ、オーケストラ楽員一人一人の努力があれば、つまり、アンサンブルをするために視覚に頼るのではなく、聴覚のみでアンサンブルができるように努力すれば・・・、指揮者は必要なくなるのでしょうか(実際に、指揮者のいないオーケストラがあったようです。しかし、長続きはしなかったとか)。
このような疑問のあるにせよ、指揮者がオーケストラにおいて、のみならず演奏会においても最も重要であることは 事 実 です。指揮者の如何でその演奏会の良し悪しが決まるとも言われています。では、指揮者というこの、言わば 特 異 な役割を、どのように捉えればいいのでしょうか。
そこで、最近ふと思いついたのが、「アンサンブルにおける指揮者は、映画における監督のようなものである」という( 比 喩 的 な)考え方です。
考えてみれば、映画における監督も、指揮者と同じほど特異な役割ではないでしょうか。映画監督は、自ら演じることはありません。カメラを回すこともありません。脚本も書きません。映画監督は照明をしません。大道具を作ったりもしません。さらに・・・、映画監督が、出演者のメイクをするでしょうか?
このように映画監督は、映画を構成する1つ1つの要素への作業を行いません(もちろん、映画監督であっても、脚本を書く場合があります(演じる場合もあります)。これは、指揮者が自ら作曲した楽曲を指揮することと似ているでしょう)。同じように、指揮者もアンサンブルを1つ1つの要素へと分解した場合、指揮者はその分解された要素であるところの演奏という作業を行いません。しかし、両者は必ず必要とされます。
これはけっきょく、リーダー論・組織論のようなものへと収着しそうな気がします。つまり一般的に考えて、その規模が大きくなればなるほど、指揮者や映画監督に専念することが要請されるのではないでしょうか。