雑誌『アルテス』創刊号の、巻末インタビュー見出しのことば。大友良英にとっては、高橋悠治とは異なり、東日本大震災以降の音楽が必要ということなのだろうか。
福島の価値を高めるのは文化の力
インタビュアーが質問に引用した、大友良英の講演「文化の役目について: 震災と福島の人災を受けて」(2011年4月28日、東京藝術大学)でのことば。
思 想 (たとえそれが後付けであれ)に裏打ちされた表現は、 強 い 。無思想の表現が ダ メ というわけではない。例えば Banksy のように、思 想 の支えによる表現の方が面白い。
地域コミュニティーの中で仕事をする面白さについて。
「今までは政治も科学もちょっと他人事でした」(同書 p. 239)
大友良英は、東日本大震災以前は、「政治も科学もちょっと他人事だった」という。
「むしろ、現状の社会に対して非常に批判的なのに、そういうものとは関わらずに自分たちの音楽をやっていこうと思っていた。それがオルタナティヴな音楽をやっている人たちの信条だった気もするし。カウンター・カルチャーとして社会の中で機能せずに、「おれたちは違う」と一線を引いて、自分たちのユートピアをつくっていくという」(同書、同ページ)
「社会の中で機能しない」と い う こ と が 、 社 会 の 中 で の 機 能 の 1 つ なのではないか、というツッコミを入れたいが、続いての発言を引用したい。
「社会の中で機能しない」という音楽態度が変わったのが、福島第一原子力発電所事故だったという。ただ、「社会の中で機能」 す る 面白さを知ったのは、原発事故の少し前だそうだ。
「そのちょっと前くらいから『アンサンブルズ』という展示をしていく過程で、地域コミュニティーの中で仕事をする面白さを知ったんです。あと、神戸の知的障害のある子どもたちとやっていく中で、自分たちがひきこもっていたオルタナティヴな音楽のユートピアの外側の世界に、どうコミットしていくかをこの数年考えていた。音楽コミュニティから飛び出してしまったようなところはあります」(同書 240ページ)
「ずっと音楽史の最先端を見ながら活動してきたんだけど、そういう誰かが作った歴史軸の先っぽじゃなくて、地理的な、自分が住んでいる土地や人との関わりの中で、ここ数年はものを作り出してきたんだと思います」(同書 同ページ)
震災後、大友良英が震災関連の音楽イベントを開くことに、少なからず聴き手である1人として違和感を感じていたのだが、以上のような理由らしい。
このインタビュー、最後まで読めば分かるのだが、同雑誌の高橋悠治のインタビューと、真逆の態度であることが分かる。ただ、両者には・・・、「社会の中で機能しない」「役に立たない」というのが、現代社会の中の機能の一部に否応無しに組み込まれてしまう、という視点がないのだろうか、という疑念を抱かされる、という共通点がある。
大友良英による、福島第一原子力発電所事故以降の政治観
「政治に失望して「政治にかかわらない」と言うのは簡単だけど、それでは何も変わって行かない。政治家であれ科学者であれ必要があれば会って話す。大げさかもしれないけど初めてそんなことを思ったんですよ」(同書 p. 242)
「でもあくまでの一音楽家としてですよ。政治家がやる政治ではなくて、だれもがみな自分たちで政治をやるという自覚をもつということだと思うんです。生きてくってのはそういうもんなんだと。それを福島で学んだんです」(同書 同ページ)
音楽で問題が解決するとはぜんぜん思っていない: フェスティバル FUKUSHIMA ! について。
「音楽で問題が解決するとはぜんぜん思ってないんだけど、」(同書p. 244)
「「フェスやろうよ」と言いだしたのは、絶望的な状況の中で、とにかく何かを一緒にやることしか思い付かなかった」(同書 同ページ)
「「放射線があるなら、そこで音楽ができるかどうかを見ていくことが、これから福島でどう生きていくかを考えることとイコールになるから」と、その次点ではなんの勝算もなかったのにそう思ったんです」
インタビュアーの、人を集めることに批判はなかったか、という質問に対して。
「最初の段階からありました。人の被爆を増やすようなことはすべきではないという批判です」(同書 p. 245)
人 が 集 ま る から、福島で生きていける。しれび手段としての 音 楽 。では、 音 楽 以外で人を集めることは可能だったか否か。仮に不可能であれば、音楽が人間にとって生きる力の根本にあることが、立証されるだろう。
「現実と戦っていく体力をやしなうための音楽」とは?
インタビュアーの、東日本大震災以降の状況で「なぜフェスティバル、なぜ音楽」だったのか、という質問に対して。
「かなり直観的だったんですが、でも祭りが必要なんだって切実に思いました」
「もちろん音楽で地震や放射能が収まるとは思ってないけれど、心の問題として音楽はやはり必要なんだと思う」(同書、p.246)
「放射能というのは体や本能では感じることができません。だから放射能との戦いっていうのは心と知識、そして科学技術をもってしか戦えないんです。そんななかで心の体力なしにはなにもできません。現実をごまかすための音楽ではなく、現実と戦っていく体力をやしなうための音楽、あるいは文化が必要なんです。フェスもそういうものとして機能していけばいいなと」(同書、同ページ)
「現実をごまかすための音楽ではなく、現実と戦っていく体力をやしなうための音楽」は、このインタビューの冒頭で引用されたことばである。
ここまで引用してきた大友良英の発言に、が ん ば る 、あるいは、い や す といった単語は一切出てこない。その代わりに使われているのが、「戦っていく」ということばなのではないか。
灰野さんなら・・・。
「たしかに灰野さんや七尾旅人くんはシャーマン的な素質のある人じゃない? 「灰野さんなら原発を止められる」僕はそう思ってるところもある」(同書 p. 247)
ちょwwwww 灰野さんwwwwww カッケェっすwwwwwwwwww
「けど、でも現実にはそんな甘いもんじゃない」(同書 同ページ)
すみません、意図的に悪意ある引用をしましたw 何だか滑稽で。この部分が。
灰野さんとは、灰野敬二のことです。
確かに原発止められそうやな…、現実はそんな甘いもんじゃないけど…
シャーマン的なものだけではどうにもならないということ。
「灰野さんがいくらすごい音を出しても、七尾くんがいくら良い歌を歌っても、原発は止まらないし、放射線の値は残酷にも変わりません。そういう意味でシャーマン的なものだけではどうにもならないと思うんです。もしこれが天災だけならシャーマンは大きな意味を持つと思います。天と人を結んでいくわけですから。でも原発事故は人災です」(同書 p. 247)
いやいや、天災だけであってもシャーマンはそんなに大きな意味は持たないだろ...、むしろ天災にシャーマンが大きな意味を持つとしたら、人災にも大きな意味を持たないとおかしいだろ...
すごくローカルなものだけど力のあるもの。ローカルな 歌 について
「今はビートルズの時代とちがってて、世界中が同じ色には染まらない状況を作っていくことだと思う。七尾くんの歌を世界中の人が歌うことを夢見るんじゃなくて、すごくローカルなものだけど力のあるものがあって、自分たちで作り上げた、という手応えなかでいくつもの社会がつながって作っていくようなイメージ。今必要な音楽というのはそういうものだと思うんだよね」(同書 p. 248)
祭 り と音楽について。
「祭りのかたちと音楽のかたちは必ずリンクしているはずです」(同書 p. 248)
「リンクしているはず」ではなく、リンクしています。
どう社会化していくか。社会と つ な が る オルタナティヴ。
「この二〇年間、僕らはオルタナティヴな世界を作ってきたと思うけど、この先必要なのは閉じた世界でやっていたことをどう社会化していくかだと思っている」(同書 p. 248)
オルタナティヴのうちの1つはいずれ、主流になる。そのときに別のオルタナティヴを立てるか、主流に言わば(オルタナティヴな視点からしてみると) 甘 ん じ る か 。実際はそんなことは、大きな問題ではないのかもしれない。
福島のフェスも土地に根ざしたフェスなんかでは全然ない: 土地と音楽について
インタビュアーによる、フェスティバル FUKUSHIMA ! に出演した音楽家が土地に根ざしていない音楽家だったのは何故か、という質問に対して、
「そもそも、灰野さんにしろ七尾くんにしろ、土地に根ざした音楽ではないし、福島ゆかりですらない。でも僕らは今同じ問題を抱えてるんです」(同書 p. 248)
つまり、 土 地 を 超 え た 問 題 の共有が必要で、土地に根ざした音楽である必要はない、ということか。